Quantcast
Channel: 「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ
Viewing all 250 articles
Browse latest View live

武士道の言葉 その33 大東亜戦争の武士道・アジア解放その2

$
0
0
「武士道の言葉」第三十三回 大東亜戦争・アジア解放 その2

混乱する中国に平穏な状態をもたらし、アジアの安定ひいては世界平和を実現する

期する所は、中國を保全、而て東亞久安の策を定め、宇内永和の計を立つるに在り(東亜同文書院「興學要旨」)

 日本はアジアの東端に位置している。それ故、アジアの安定と平和は、わが国が生存して行く為にも無視する事の出来ない重要な課題であった。

 そこで先人達は、わが国とアジア諸国との懸け橋になる人材の養成に取り組み、その中で育った人物がアジア各地の様々な場で活躍し、日本の国策を支えて来た。

 わが国にとって最初の試練は日清戦争だった。その終結後に、南京同文書院を経て上海に設立されたのが「東亜同文書院」である。

 実は、私の大叔父の義父である宗方小太郎が、その設立と運営に拘っている。又、私の伯父である田邊寛三郎は、熊本の済々黌から東亜同文書院に進み、戦後は熊本県庁で日中親善に尽力している。その伯父は「蒙古放浪の歌」を好んで唄い、熊本愛酒家番附の横綱に記される程の豪傑だった。

 東亜同文書院は「興學要旨」と「立教綱領」を定めて、儒学的な素養に基づく実学を目標に、シナ語を取得させて日中の相互理解と協力を担える人材を育てた。あくまでも「國家有用の士、当世必需の才と成る」日本人を育てた。当今外務省の身も魂も奪われた「チャイナスクール」とはその質を異にしていた。

 同文書院の学生には最終年の半年を使って、支那大陸の各地をグループで調査探検する「大旅行」が課せられ、その膨大な記録は『支那省別全誌』全十八巻として纏められるなど、学術的にも高く評価され、日本の国策にも寄与した。それらは今日、藤田佳久氏の手によって『東亜同文書院 中国調査旅行記録』全五巻として不二出版から出されているが、それらの記録を読むと、当時の大学生達の様々な体験報告により、当時の時代状況が解りかつ日本と中国との文化の違いなども見えて来る。

 この様な体験を積んだ者達が戦中・戦後の日中関係を支えたのである。





自分の日常の姿で、日本人とは何かをアジア諸民族に示せ

日本人とは斯くの如きものなりと諸君の日常の行動によって亜細亜諸民族に知らしめることである。(東亜経済調査局附属研究所二期生卒業式での大川周明所長訓示より)

 昭和十三年、わが国の将来に亘る東南アジア政策を見据えて、東南アジア・インド・イスラム圏との懸け橋となる人材を養成する為に発足したのが東亜経済調査局附属研究所(通称「大川塾」)である。

 その所長にはアジア主義を唱える稀代の思想家・大川周明が就任した。

 開設の目的は「将来、日本の躍進、発展に備うる為海外各地に派遣し、満壱拾年間当研究所の指定する公私機関に勤務しつつ、該地の政治、経済及び諸般の事情を調査、研究し当研究所に定時報告を提出せしめ、且つ一旦緩急あれば必要なる公務に服せしむる目的を以て青年を訓育す。」とある。全寮制の教育機関で、修業年限二年制、学費・必要経費一切無料(満鉄・外務省・陸軍が出資)だった。

 選考基準には、

 ①身体強健にして激務に耐え得る者

 ②意志鞏固にして責任感強く、困苦欠乏に堪え得る者

 ③秘密を厳守し得る者

 ④数理的才能を有する者

 ⑤家庭的繋累少なき者

 ⑥親権者の同意を得たる者、

とある。語学教育が徹底的に重視され、専攻する言語によって班分けされた。

【第一期生】タイ班(英語・タイ語)仏領印度支那班(仏語・ベトナム語)蘭領印度支那班(蘭語・マレー語) 英領印度班(英語・ヒンドゥー語)

【第二期生】  アフガニスタン班(英語・ペルシャ語) イラン班(仏語・ペルシャ語)アラビア班(英語・アラビア語) トルコ班(英語・トルコ語)

と言う様に、植民地支配している国の欧米語と原住民語の双方を徹底して身に着けたのである。

 大川所長の教育方針は二期生の卒業式での「送る言葉」に伺う事が出来る。

「諸君の任務は、一面において各地の綿密なる調査研究を進めて日本の亜細亜経綸に寄与すると同時に、他面において日本人とは斯くの如きものなりと諸君の日常の行動によって亜細亜諸民族に知らしめることである。

それには第一に、諸君は正直でなければならぬ。正直とは己を欺かず、人を欺かず、天を欺かざることである。

第二は、親切でなければならぬ。親切とは、誠実と慈悲を以て人に接することである。

この二つを行い得たならば、諸君は日本人として真面目を発揮し得ること間違いない。そして一人でも二人でも本当の友を現地人の中に見つけなさい。また、任地において趣味を見つけ、それを十年間続けることです。」






南機関長を慕うビルマの人々の謝意

父親がその子供に教え諭すが如く、その子供を守るが如く(鈴木敬司大佐の離緬によせてビルマ独立義勇軍から贈られた感謝状)

 大東亜戦争開戦に先立つ昭和十六年二月一日、ビルマ(ミャンマー)の独立の援助と、援蒋ビルマ・ルートの遮断を目的に大本営直属の「南機関」が誕生し、機関長には鈴木敬司陸軍大佐が就任した。

 四月から六月にかけて南機関は、ビルマの独立を目指すアウン・サン他のタキン党青年幹部三十名を日本に脱出させ、海南島で訓練する。その後、青年達はビルマ・タイ国境に潜入し、大東亜戦争開戦と共に、日本軍と協力してビルマ解放の為に進軍した。

 そして、昭和十六年十二月二十八日、彼らが核となってビルマ独立義勇軍(BIA)が結成された(アウン・サンは後にビルマ建国の父と呼ばれ、今のミャンマーの民主化の指導者アウンサン・スーチーはその娘である。)。

 ビルマには一つの民間伝承があった。それはイギリスに亡ぼされたアラウンパヤー王朝最期の王子が、ボ・モージョ(雷帝)と名乗って、白馬にまたがり太陽を背に東方からやって来て、ビルマを救出し解放する、というものだった。

 そこで、鈴木機関長は白馬を使用し、住民達は鈴木機関長を雷帝(ボ・モージョ)と呼ぶようになった。

 ビルマ解放後、ビルマの即時独立を求める民衆と時期尚早の日本陸軍との狭間で鈴木大佐は苦境に立たされ、昭和十七年七月には転任させられた。

 その鈴木にビルマ独立義勇軍は感謝状を贈った。そこには、鈴木の理想と実践に対するビルマ人の真心が綴られている。

 「アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド、ビルマ、中国、マラヤ、フィリピン、スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々の為にも、闘ったのである。(略)

 父親がその子供に教え諭すが如く、その子供を守るが如く、雷将軍は真の情愛をもって、ビルマ独立軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員の事に心を砕いてくれた。ビルマ人は、その老若男女を問わず、この事を忘れる事は決して無い。(略)

 ビルマの為にこの様な骨折りをした雷将軍は、いまや日本に帰らんとしている。われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末長く懐かしむ。

 将軍のビルマ国への貢献も、何時までも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶ事は無い。」






独立できる力を自ら身につけよ!

独立は自らの力で取るものであり、与えられるものではない。(インドネシア・タンゲラン青年道場 柳川宗成中尉訓話)

 昭和十七年三月一日、インドネシアに進撃した日本軍に対しオランダ軍は殆ど抵抗できずに敗北を重ね、わずか九日間で降伏した。その様は三五〇年もの長きに亘って支配してきたオランダ人の幻想を粉々に打ち砕くものであった。

 インドネシアでは独立を志す青年達が陸続と生れて来る。その青年達に独立の為の知識と技量を身につけさせる為、日本陸軍は教育機関を各地に設置し、そこで育った人材が後に、郷土防衛義勇軍(ペタ)の幹部となり、更には大東亜戦争終結後の独立戦争を戦い抜く主体者となって行く。

 この青年教育機関の代表的なものがタンゲラン青年道場だった。

 その中心者は拓殖大学出身で陸軍中野学校卒業の将校の柳川宗成中尉だった。

 タンゲランに集まった約五十名のインドネシア青年に対し、柳川中尉は日々次の様に訓示した。

「独立は自らの力で取るものであり、与えられるものではない。与えられたものはすぐに奪われる。諸君、自らの力が備われば、自然に独立は出来る。自らの力が備わるまで黙って勉強せよ。

今の状態ではまず見込は全く無いと言えよう。要は諸君たちの今後の努力如何にある。黙々と自力を養うことだ。

それが為には、私達は全霊全魂を捧げる。私達に負けるな。私達に負けるような力では独立は出来ない。独立は諸君達が私達に如何にして勝つかにある。一日も早く我々に優る能力を作るために全精力を体力、気力の養成に打ちこめ。」と。

 そして教官達にも「滅私奉公の垂範」を求め、「大東亜戦争の真の意義に徹す」事を強調した。教官達は最初の三か月間は全くの休暇・外出無しで教育に当った。

 当時の生徒で後にインドネシア国軍大佐になったズルキフル・ルビスは、柳川からいつも言われていた事として、

「第一番は、精神です。何事も精神。これはことあるごとに絶えず言われました。第二に、お互いの友情を大切にしろ。第三は、ウソをつくな。そして第四番目は、勇気」をあげ、

「私たちは、独立宣言(一九四五年八月十七日)ののち、オランダと戦った。私たちは、柳川大尉のこの精神でたたかいました。敵をこわいと思ったことは、一度もありません。」と述べている。

 抑圧されたアジア民族に対しかつての日本人は、深い同情と強い愛情を抱き真正面から向き合った。彼らの様な強烈なる感化力・教育力を持った教師が、現在の日本にどれ程存在するのであろうか。

武士道の言葉 その34 大東亜戦争・アジア解放 その3

$
0
0
「武士道の言葉」第三十四回 大東亜戦争・アジア解放 その3(『祖国と青年』27年5月号掲載)

ベトナム独立を支援し続けた日本人実業家
大南公司はベトナム人のための企業であり、その利益はベトナムの独立運動の為に使う(大南公司創設者松下光廣の言葉)

 十六世紀後半から十七世紀にかけて東南アジアには多くの日本人が進出し、マニラに約三千人、タイには山田長政を始め約千五百人が住んで日本人町を形成し、ベトナムでも北部や中部に日本人町が点在していた。鎖国で廃れるが、明治になると再び日本人は数多く東南アジアに移り住んでいる。
 
 その中には熊本の天草出身者が数多くいた。明治四十五年、天草の大江出身の松下光廣は、十五歳で志を抱いてベトナムに渡り、苦労して総合貿易商社「大南公司」を創業した。以下、牧久『安南王国の夢』に拠る。

 松下は単なる商売人では無く、現地人と交わる中で、ベトナムの歴史を勉強し、フランスに支配されて苦しい生活を送っている人々に深い同情を寄せ、日露戦争での日本の勝利以来湧き起って来たベトナム独立運動に深く共感し、様々な援助を与えた。昭和三年にはベトナム独立の象徴的人物である亡命中のクオン・デ候との親交が生まれ、松下は深い信頼を受け「盟主クオン・デの現地代行者」として独立運動に深く関る様になった。

 大南公司は「昼は商社、夜は革命運動の司令部」と呼ばれるようになる。昭和十二年、松下はフランス当局から「スパイ容疑」を着せられ国外追放になり、日本軍の仏印進駐まではタイから指揮をとらざるを得なくなる。昭和十二年秋に松下は前号で紹介した大川周明を訪ね大川のアジア解放の志に深く共鳴した。大川塾でインドシナを志した卒業生も次々と大南公司勤める様になって行く。

 裸一貫から現地ベトナム人の協力を得て築き上げて来た松下は、「大南公司はベトナム人のための企業であり、その利益はベトナムの独立運動の為に使う」との固い信念を持ち実践した。大東亜戦争前中後・戦後のベトナム戦争を通じ、ベトナムが独立統一されるまで、松下は現地人の為に命がけで協力している。




ビルマ国軍教育に使命を燃やした陸軍大尉
我一人なくしてビルマ軍の皇道化なし。(昭和十八年四月二十九日『野田日記』)

 ビルマ独立義勇軍を育てた南機関の中に、南京軍事裁判で「百人斬り」の冤罪で処刑された野田毅大尉が居た。野田大尉は、昭和十六年三月五日、タイの首都バンコクに赴任し、タイ・ビルマ国境でビルマ独立党(タキン党)の青年の日本への脱出の手引きを行い、大東亜戦争勃発後は、彼らと共にラングーンに進撃した。平成十九年に出版された『野田日記』には、野田大尉の大東亜解放に寄せる熱い思いや、日本人の倫理的な高さに中々達する事の出来ない現地青年達へのもどかしさなどが赤裸々に綴られている。

 野田大尉の信念は「不正は断乎として処罰する、正義を愛する、これ即ち日本精神である。」というものであり、現地青年の不正や虚偽には厳しく対処し、得意の背負い投げで投げ飛ばしたりするなど、正義感の迸る激しい「指導」をしている。

 野田大尉は南機関解散後も昭和十八年八月三日までは引き続きビルマ防衛軍(BDA)司令部指導官として、幹部養成の任に当り、「ビルマ軍将校下士官服務規程」の起案なども行っている。

 昭和十八年の四月二十九日、野田大尉はビルマ防衛軍将兵と共に天長節式典を挙行し、日記に「天業恢宏の黄色の大文字も、この微小に見えるビルマの指導から生れる。日本皇道宣布の礎石たるべく我々はまだまだ勉めなければならぬ。まだ我々は奉公し足りない。皇道を彼ら兄弟民族に知らせ、治らせ、染み込ませるものは我らでなければならぬ。否、私でなければならぬ。我一人なくしてビルマ軍の皇道化なし。」と、記している。

 更に、翌日は靖国神社例祭に合せて遥拝を行い、「日本の皇化は西へ、西へと、及ぼさねばならぬ。この西進の礎石となって斃れたる我らの先輩の靖国神社の英霊に対して遥かビルマの涯より感謝の意を表するとともに、我らの至らざるを省み、我らの未だ奉公の足らざるを恥じなければならぬ。(略)本心はインドへ、イランへ、イラクへと覚悟を決め、そして前進しようではないか」と所感を述べている。

 ビルマだけでなく、アジアと世界を皇道=日本の理想で救済するとの強い意志を野田大尉は有していた。戦後の「一国平和主義」にしがみついている「九条自縛菌」感染日本人には到底想像が及ばない高い世界的な使命感に、当時の日本人は燃えていたのである。




インドネシア独立戦争に参戦した日本人
弾は人を殺さない。弱い心が、その心の持ち主を殺す(バリ独立義勇軍・平良定三)

 大東亜戦争で日本が敗れた後、日本軍によって放逐されていたかつての宗主国英・仏・和蘭は、アジアを再び植民地支配すべく軍隊を送り込んだ。現地人は、自らの手でかつての支配国の軍隊と戦い独立を守り抜かなければならなかったのである。
しかし実際の戦闘となれば経験も浅く不安の為、彼らは武装解除された日本軍の将兵に独立戦争への参加を要請し懇願した。

 一方、日本の将兵も現地青年達と大東亜解放の理想を共有して来た者も多く、彼らを見捨てる事に堪えられない者もいた。その結果インドネシアやベトナムなどでは、多数の日本軍将兵が現地に残って独立戦争に参加した。

 インドネシアでは、約二千名が各地の独立戦闘軍の中核となって戦っている。

 彼らは、①実戦部隊のリーダー②インドネシア将兵の教育③武器の製造④民衆対策の指導⑤情報収集などの役割を担い、独立軍から頼りにされた。

 特に「日本人特殊部隊」は和蘭軍に極度に怖れられ、高額の賞金迄かけられている。

 参謀将校のピンダーは「我々は武士道精神を日本から教え込まれ、訓練を受けた。」日本の教官は皆「どのような理由があろうとも、戦闘に於いて手を挙げ降参することは許されないと教えた。もしお前の弾薬がなくなったら、銃剣で敵を倒せ。銃剣が折れたら、素手で殴り倒せ。腕も折れてしまったら、歯で噛み付け。そして歯も折れてしまったら、目で敵の精神力を打ち負かせ」と教え「バリのププタン精神と、日本の武士道精神とが一体」となって独立戦争の勇士を生み出した、と述べている。

 バリ島で独立戦争を戦い抜き、最後まで生き延びた平良定三は、和蘭軍に追いつめられて恐怖するインドネシア兵に、「弾は人を殺さない。弱い心が、その心の持ち主を殺すんだ」と言って励ました。平良の強い精神力を示すエピソードである。(坂野徳隆『サムライ、バリに殉ず』)

 アチェで戦った陸軍中野学校出身の岸山勇は、攪乱要員養成学校・前線の焦土作戦部隊・兵器工場・遊撃拠点の四部門を担い、後に兵器工場爆発で事故死したが、最後に、インドネシア語で『お前たちは絶対オランダを信用するな。独立のため死ぬまで戦え。インドネシアは必ず独立するのだ。』と叫び、『東はどこか』と聞き、かすかな声で『天皇陛下万歳』と言ったまま息を引き取ったという。

 


アジア諸国に対する昭和天皇の「お詫び」
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。(終戦の詔書)

 バリでインドネシア独立戦争に身を投じた堀内秀雄海軍大尉は、バリ人の義勇兵に「天皇陛下がお約束したインドネシアの独立を果せないなら、私はむしろ死んだほうがましだ。だから私はインドネシアが本当の独立を果すまで、あるいは私がこのバリの地で死ぬまで、あなたがたと一緒に戦うのだ。」と語ったという。

 大東亜解放によるアジア諸国の独立の実現は日本国の第一の戦争目的だった。その日本が米国の圧倒的な軍事力の下に敗北し、遂に降伏せざるを得なくなったのである。このまま戦いを継続すれば、日本国の存立が脅かされ、日本民族が抹殺されてしまう恐れがあった。米軍は日本の殆どの都市に対し空爆を行い日本人を焼夷弾による炎の海で焼き殺し、更には原子爆弾を広島・長崎に投下して一瞬の内に数万人の日本人をジェノサイドした。

 終戦の詔書の中で昭和天皇は「敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。」とお述べになり、「帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及其の遺族に想を致せば、五内為に裂く。」と身の引き裂かれるような苦しみを表白されている。

 しかし、日本には大東亜解放を信じて共に起ち上がり協力した友邦国があった。彼らに対する日本国の道義的責任はどうなるのか。昭和天皇は御苦悩された。それ故、終戦の御決断を国民に示された詔書ではあったが、海外の諸盟邦に対しても、「遺憾の意を表せざるを得ず」とのお詫びの文言を入れられたのである。

 更に日本は、昭和二十七年の主権回復以来一貫して、かつて「帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦」だった東南アジア諸国との関係を重視し経済支援も行って来た。ASEAN諸国やインドは最も親日的な国としてわが国との絆を大切にしている。

 かつてタイのククリット・プラモード元首相は「日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生れた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。」と述べたが、わが国が戦前・戦中・戦後一貫してアジアの希望の星で有り続けている事はまぎれもない事実である。反日日本人だけがそれを無視し、隠そうとしているのである。

武士道の言葉 その35 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その1

$
0
0
「武士道の言葉」第三十五回 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その1(『祖国と青年』平成27年6月号掲載)


文字通り最後の一兵まで戦った日本軍の勇気
誰もが最後の一兵最後の一画までというようなことをいうが、文字通りそれをやるのは日本兵だけだ(ビルマ戦英軍指揮官スリム大将)

 大東亜戦争に於ける日本軍将兵の鬼神をも泣かせる勇戦の姿については、敵であった米英の指揮官達が、驚嘆と敬意とを持って様々に書き残している。

 アーサー・スウィンソン『四人のサムライ 太平洋戦争を戦った悲劇の将軍たち』には、次の記述がある。

 「西欧の兵隊はとうてい日本兵の無条件の勇気に太刀打ちできない。ビルマ戦のさなか、スリム大将は、『誰もが最後の一兵最後の一画までというようなことをいうが、文字通りそれをやるのは日本兵だけだ』と言ったものだ。これができるのは武士道のためだと思う。武士道とは武士の法典でこれにより死に対する非常に積極的な態度が育成されていく。」と。

 実際、日本軍の将兵たちは太平洋の孤島のみならず、大陸の孤塁に於ても最後の一兵となるまで見事に戦い抜き、敵の心胆を寒からしめている。

 その様を日本人は「玉砕」と呼んだ。西郷南洲の漢詩にも「丈夫は玉砕するも甎全を恥ず」とある。「立派な男児たる者は玉の様に砕け散ったとしても、無価値な瓦のようにいたずらに生き長らえる事を恥じる」の意味である。

 しかし、様々な戦記を読むと、日本軍将兵の戦いの姿は、「死に急ぎ」では無く、最後の最後まで戦い抜き、敵を一人でも多く斃す事に執念を燃やしている。それは、自らの戦いが祖国に残る人々の為の防衛戦だとの自覚故であった。祖国への強い愛情が、彼らをして世界史に類を見ない勇者にしたのである。

 湾岸戦争の時、砂漠で次々と米軍に降伏するイラク兵の姿に驚きを覚えたが、昨年のクリミアのウクライナ軍、ISとの戦いのイラク軍と、戦わずして降伏する軍隊の様は異常に思わる。だが、彼らにとっては玉砕してまで守るべき祖国は存在しないのであろう。「祖国との絆」、それこそが日本軍勇戦の秘密である。






国家永遠の生命に殉じる
我軍は最後まで善戦奮闘し、国家永遠の生命を信じ、武士道に殉ずるであろう。(アッツ島守備隊打電)

 北太平洋アリューシャン列島のアッツ島を占領した日本軍守備隊に対し、昭和十八年五月十二日より米軍の奪還(アッツ島は米国本土である)作戦が開始された。

 米軍は十九隻の艦隊と約一万一千人の陸軍部隊を投入。対する日本軍守備隊は二千六百人。実に四倍の敵だった。

 大本営は、未だ戦闘が開始されてない隣島のキスカ島からの救出しか行い得ず、アッツを放棄するという苦渋の決断を行ない「軍は海軍と万策(ばんさく)を尽くして人員の救出に務むるも、地区隊長以下凡百の手段を講じて、敵兵員の燼滅(じんめつ)を図り、最後に至らば潔(いさぎよ)く玉砕し、皇国軍人精神の精華(せいか)を発揮するの覚悟あらんことを望む」と打電した。

 それに対し守備隊長山崎(やまざき)保代(やすよ)陸軍大佐は、「国家国軍の苦しき立場は了承した。我軍は最後まで善戦奮闘し、国家永遠の生命を信じ、武士道に殉ずるであろう」と返電した。

 当初、米軍は三日で降伏させると豪語していたが、十八日間も日本軍の攻撃は続いた。その中でも米軍を恐怖に陥れたのは日本刀や銃剣をかざしての肉弾突撃(米軍は「バンザイ・アタック」と呼んだ)と、兵士が地雷を抱いて敵戦車に突っ込む「対戦車肉攻」だった。共に、捨て身の戦法である。

 山崎大佐はアッツ島赴任に際し、妻子宛の遺書を残している。妻の栄子さん宛の一節には「思ひ残すこと更になし、結婚以来茲(ここ)に約三十年、良く孝貞(こうてい)の道を尽す、内助の功深く感謝す。子供には賢母、私には良妻、そして変らざる愛人なりき、衷心満足す。」とある。

 又、四人の子供達宛の一文には「行く道は何にても宜し、立派な人になって下さい。」とある。山崎大佐の人柄が偲ばれる言葉である。

 戸川幸夫『山崎保代中将と一人の兵長』には、佐藤国夫兵長が撃墜した敵飛行士の墓を作った事に対し、「それが本当の武士道というもんだよ。いいことをした。戦いは戦い、情けは情け。情けあればこそ戦いも強い……といえる」と、山崎隊長が述べた事が紹介されてある。

 昭和二十五年八月、米軍は山崎部隊玉砕地に、銅板の碑を建立し、「一九四三年、日本の山崎陸軍大佐はこの地点近くの戦闘によって戦死された。山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した。」と記した。アッツ島将兵の勇戦を米軍が歴史に刻んだのである。







太平洋の防波堤
我身を以て太平洋の防波堤たらん(サイパン守備隊の誓いの言葉)

 私が大学生だった四十年前、七夕の七月七日が近付くと大学構内には極左過激セクトが書いた「糾弾!中国侵略 盧溝橋事件○○年」と書かれたでっかい立看板が出されていた。どの国の大学なのか解らない程、彼らは中国共産党と一体化した歴史観に呪縛されていた。

 その看板を見る度に私は、七月七日はサイパン守備隊の玉砕の日であり、日本人ならその事を記し、守備隊を追悼すべきではないのか、と怒りに胸を震わせていた。

 昭和十八年九月三十日、米軍の本格的な反攻に対抗す可く大本営は絶対国防圏を設置した。この圏内に敵の侵入を許せば、日本本土が敵の爆撃機によって恒常的に空襲を受ける事となる為、絶対に守り抜くとの覚悟がこの言葉には籠められていた。

 この絶対国防圏の西太平洋の端に位置していたのが、マリアナ諸島にあるサイパン島やテニアン島だった。それ故、サイパンの守備隊は「我身を以て太平洋の防波堤たらん」との合言葉を以て、押し寄せる米軍を必ず撃退するとの信念に燃えていた。

 昭和十九年六月十一日より米軍は大空襲、艦砲射撃を繰返した後、十五日に上陸を開始した。艦艇は空母十五を含む七百七十五隻 陸軍十万 海軍二十五万という大規模なものだった。迎え撃つ日本軍守備隊は四万四千人。圧倒的な火力で日本軍を制圧したと考えた米軍は北と南の海岸に殺到したが、海岸に迫る米兵に日本側の砲弾が集中し、米軍は思いの外の損害を被った。

 だが、火力・物量の差は如何ともし難く、日本軍の「水際(みずぎわ)邀撃(ようげき)作戦」は頓挫(とんざ)し、島内での消耗戦となって行く。そして遂に七月七日に防衛司令官・南雲(なぐも)忠一(ちゅういち)中将が自決し、組織的な戦闘は終結した。

 だが、残存将兵は島内の密林地帯に立て籠もってゲリラ戦を展開した。

 数年前に映画にもなり反響を呼んだが、その元になったのは、ドン・ジョーンズ『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』である。大場大尉は、ばらばらになった敗残兵を見事に再組織する。所属部隊を失った兵隊達は別人と思える程無力化していたが、一旦指揮・命令系統が確立すると再び勇敢な兵隊に甦ったのである。大場隊は昭和二十年十二月一日まで戦い抜き、上官の命令を受けて降伏した。その姿は米国でも報道され、感動を与えた。







名誉の戦死
チチハリッパニハタライテ、メイヨノセンシヲトゲタ(アンガウル守備隊松島上等兵の遺言)

 東京渋谷にある大盛堂(たいせいどう)書店の店主だった船坂(ふなさか)弘(ひろし)氏は、パラオのアンガウル島玉砕戦の数少ない生き残りの方だった。戦闘での凄まじい負傷の為に気絶して捕虜となり、生き長らえた船坂氏の体内には二十四個もの弾丸の破片が残されていたと言う。

 その船坂氏が自らの体験をもとに記した『英霊の絶叫(ぜっきょう) 玉砕島アンガウル』は、私にとって忘れる事の出来ない書物である。

 映画「連合艦隊」では、サイパンの玉砕戦を、敗色濃厚になって武器弾薬も食糧も欠乏した将兵が自殺の為に力なく敵に向って行く姿で描いていた。ところが、船坂氏の著書には、身が傷つき不具となろうが最後の最期まで、敵を斃(たお)さんと戦いを挑んでいく凄まじい姿の日本軍将兵の姿と、彼らの真情が記されており、真実に眼を開かされたのだった。

 船坂氏に付き従った松島上等兵の最期の場面は何度読んでも涙を禁じ得ない。

 重体に陥った松島上等兵は船坂氏の手のひらに人差し指で三十忿程かけて「ハンチョウドノ、ゴオン(御恩)ハシンデモワスレマセン。……ツマトカツボー(勝坊・三歳の愛息)ニヨロシク。……チチハリッパニハタライテ、メイヨノセンシヲトゲタ」と記して亡くなった。「名誉の戦死」、正に英霊の絶叫だった。

 船坂氏はこの本を書いた已むに已まれぬ気持ちを次の様に記している。

「戦後二十一年、その間に過去の戦争を批難し、軍部の横暴を痛憤し、軍隊生活の非人道性を暴き、戦死した者は犬死であるかのような論や、物語がしきりにだされた。私はこの風潮をみながら心中こみあげてくる怒りをじっと堪えてきた。

 やっと今、この記録をだすことができるに当って、私は心の底から訴えたい、戦死した英霊は決して犬死ではない。純情一途な農村出身者の多いわがアンガウル守備隊の如きは、真に故国に殉ずる気持に嘘はなかった。彼らは、青春の花を開かせることもなく穢れのない心と身体を祖国に捧げ、「われわれのこの死を平和の礎として、日本よ家族よ、幸せであってくれ」と願いながら逝ったのである。ただ徒らに軍隊を批判し、戦争を批難する者は「平和の価値」を知らない人である。」と。

 終戦七十年の今日、船坂氏の絶叫を決して忘れてはならない。
 
 尚、執筆当時船坂氏は、剣道を通じて三島由紀夫氏と親交があり、当時『英霊の聲』を執筆中だった三島氏が、序文を寄せ、かつ文章の指導にも当っている。

武士道の言葉 その36 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その2

$
0
0
「武士道の言葉」第三十六回 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その2(『祖国と青年』27年7月号掲載)

祖国の青年達への願い

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き乙女達よ、清く美しく健康であれ。 (グアム島・海軍軍属石田政夫遺書)

 玉砕した戦士達の祖国に対する願いを記したものとして、グアム島で厚生省調査団により発見された日記に綴られた言葉ほど胸を打つ物はないであろう。日記を記していたのは、海軍軍属の石田政夫氏、当時三十七歳である。石田氏は昭和十九年八月八日、グアム島にて戦死した。

 日記には、息子に対する思いが綴られ、更には、自らの生命を捧げる祖国日本の若き男女への祈りが刻まれていた。

「昨夜子供の夢を見ていた。父として匠に何をしてきたか。このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。強く生きてほしい。そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。

三月○日
内地の様子が知りたい。聞きたい。毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟してきている。万策つきれば、いさぎよく死なう。
本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむことが出来れば、 母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き乙女達よ、清く美しく健康であれ。」

 翻って今日の若人の姿を思い浮かべる時、彼らが生命を捧げて守らんとした祖国日本の青年達は祈りに応えているだろうか。「強さ」「逞しさ」「朗らかさ」や「清らかさ」「美しさ」は民族の誇りの自覚の上に培われる。自虐・反日を青少年の心の中に瀰漫させた戦後教育、その根源に位置する敗戦丸出し憲法の解体なくして日本人の精神の再建は展望されない。





平常心

敵の空襲も最近多少増加仕り候えども大した事なく候 (中川州男陸軍大佐・妻宛最後の書簡)

 終戦七十年に当り、天皇皇后両陛下はパラオに行幸され、ペリリュー島を慰霊巡拝された。本当に有り難い事である。ペリリュー島の戦いは、大東亜戦史に残る激戦だった。南北9キロ東西3キロ 20平方キロメートルしかない島を昭和19年9月15日の米軍侵攻から11月27日まで何と、73日間も守り抜いたのだ。守備隊長は中川州男陸軍大佐である。

中川大佐は、熊本県玉名市の出身であり、旧制玉名中学校(現・玉名高校)から陸軍士官学校に進学している。その玉名中の同窓生達(その中の一人が日本会議熊本の花吉副会長)が、中川大佐の顕彰を行なうべき事を話し合い、平成二十二年七月三十一日に熊本日日新聞社から『愛の手紙 ペリリュー島玉砕中川州男大佐の生涯』が出版された。執筆は升本喜年氏が担当された。中川大佐は筆まめな人で、光江夫人宛に近況を知らせる手紙を幾通も出され、それを夫人が保存されており、それらがこの本の中で紹介されている。

その手紙(私信)の最期となったものが、昭和十九年七月三十一日にペリリュー島から出されたものである。全文を引用する。

「拝復 六月二十二日付手紙落手仕り候

無事熊本の緒方様宅で御暮らしの由 何よりと存じ候 当方その後元気にて第一線勤務に従事 将兵一同愉快に不自由なく暮らし居り候故 御放念被下度候 敵の空襲も最近多少増加仕り候えども大した事なく候 

近々状況も切迫致し候 手紙も船の運航のため余りつかないようになるとも 決して御心配なく御暮し願上げ候 丁度 東京行きの幸便有之候故 御たのみ致し候 各位にもその後失礼致し候。よろしく御伝え願い上げ候 

高瀬も緒方様も道之様にも御元気の事と存じ候 よろしく御願い上げ候 先ずは要用のみ取り急ぎ早々 祈御健康

七月三十一日       中川州男

 光枝殿             」

 中川夫妻には子供が無かった。感情を抑制しつつも、妻を心配させまいとする大佐の心遣いが窺われる手紙である。実は、この時期、連日の様に米軍機による空爆が繰り返され、その合間を縫って島内の縦深陣地構築に全力を投入し、大佐はその先頭に立たれていたのである。それでも「大した事なく候」と記される如く、平常心そのままであった。





一人十殺

我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ(硫黄島守備隊「敢闘ノ誓」)

 かつて私が大学生の研鑚合宿を企画運営していた頃、夏になると、自らも学徒兵として満ソ国境で戦った体験を持たれるノンフィクション作家の南雅也先生をお招きしていた。ある年、南先生は参加者に一枚の紙を配られた。先生の義兄で硫黄島協会事務局長が、遺骨収集時に御遺骨の横で発見したガリ版刷りのコピー、それが「敢闘ノ誓」だった。

 硫黄島もペリリュー島と同様、南北8、3キロ・東西4、5キロ~0、8キロ、22平方キロメートルしかない島である。昭和20年2月19日~3月26日まで36日の激戦が繰り返され、日本軍の戦死者は2万を超え、戦死・戦傷者総数は2万1152人、一方攻撃を仕掛けた米軍も戦死・戦傷者を合わせると2万8686人となり、米軍の損害の方が日本軍を上回ったのだ。この「激戦」の事実こそが、後に米軍をして本土決戦を躊躇させる大きな力となったのである。

 その硫黄島将兵の魂の凝縮ともいえる言葉が「敢闘ノ誓」の中に刻まれている。勿論、それを考案したのは、硫黄島守備兵団の総司令官である小笠原兵団長・栗林忠道中将である。そして、この敢闘ノ誓が硫黄島守備隊将兵の「魂」となって実践されたのだった。

「一、我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン 

 一、我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン 

 一、我等ハ挺身敵中二斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン 

 一、我等ハ一発必中ノ射撃二依ツテ敵ヲ打扑サン

 一、我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ 

 一、我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」二依ツテ敵ヲ悩サン」

 米国側が書いた硫黄島戦記には、日本兵の射撃の見事さが米軍を恐怖に陥れた様が記されてる。硫黄島の地下に張り巡らされた坑道を利用して、日本兵はあたかも忍者の様に神出鬼没して米兵を一発で斃したと言う。

この誓の中の「我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」の決意は私には良く解る。かつて私が学生運動に起ち上がった頃の大学では、左翼暴力集団が鉄パイプを振るって思想信条の違う者を排除するという「暴力」が横行していた。その中で天皇の御製や大御心を語り、大東亜戦争の意義を発言するには覚悟が必要だった。もし自らが殺される時には敵を二人以上は必ず斃してしか死ねない(祖国日本を少しでも良くする)との決意を抱いて学園に立っていたのである。
 





武士道に降伏なし

御奨めによる降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。 (浅田眞二陸軍中尉・米軍司令官宛遺書)

 硫黄島の組織的な戦闘は、三月二十六日に終了したが、その後も「敢闘ノ誓」の如く、ゲリラ戦が展開されていた。戦闘に於ける日本軍捕虜は極めて少数で、その殆どは重傷を負って意識不明の状態で収容された者達であった。日本人の戦死率は約96%に達している。米軍は火焔放射器で攻撃したり、坑道入口をコンクリートで固めて生き埋めにするなどして残存日本軍ゲリラを追いつめて行った。それでも、終戦後まで地下洞窟に立て籠もって戦い抜いた強者も居た。

 五月中旬になって摺鉢山地下壕入口の木に挿まれていた手紙が米軍に発見された。それは、混成第二旅団工兵隊第二中隊小隊長 浅田眞二中尉が米軍司令官スプルアンス提督に宛てた手紙だった。浅田中尉は摺鉢山地区隊で戦闘中に米軍戦車の射撃を受けて重傷を負い、地下壕にとり残されて生き長らえていたのだった。だが、最期の時を迎え、日本人の意気を敵将に示して従容として散って行ったのだった。浅田中尉は東京帝国大学出身の出陣学徒将校だった。

「閣下のわたし等に対する御親切なる御厚意誠に感謝感激に堪へません。閣下よりいただきました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。

 御奨めによる降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。もはや水もなく食もなければ十三日午前四時を期して全員自決して天国に参ります。

 終りに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。

昭和二十年五月十三日

                                                       日本陸軍中尉  浅田 眞二
米軍司令官 スプルアンス大将殿  」

 硫黄島守備兵団の栗林中将は文才豊かな将軍だった。陸軍省兵務局馬政課長時代には「愛馬進軍歌」を生み出し、硫黄島では、先述の「敢闘ノ誓」「日本精神五誓(硫黄島部隊誓訓)」を記して将兵の精神を一つにしている。その意味では、硫黄島の激戦は「言葉」が血肉化し「魂」となって、敵を圧倒したと言えよう。そして浅田中尉も、ユーモア溢れかつ決然たる「言葉」を残して天国に旅立った。彼らは、祖国日本を守り抜く為に、死地にあって自らの生命を燃やし尽くした。

戦後日本は、占領軍によって支配された言語空間の中で、祖国を守る決意の言葉を喪失せしめられ、未だにそれから脱却し得ていない。安保法制の正常化・適正化、更には憲法改正によって日本人の言葉に生命力を甦らせねばならない。

武士道の言葉 その37 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その3

$
0
0
「武士道の言葉」第三十七回 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その3(『祖国と青年』27年8月号掲載)

硫黄島の壕内から米国大統領を叱責
外形的ニハ退嬰ノ已ムナキニ至レルモ精神的ニハ弥豊富ニシテ心地益明朗ヲ覚エ歓喜ヲ禁ズル能ハザルモノアリ。 (市丸利之助海軍少将「ルーズベルトニ与フル書」)

 硫黄島守備隊・海軍指揮官の市丸利之助少将は激戦の最中に壕内で米国大統領宛の手紙を記し、英文に直したものを米側に届けんとした。幸い、米兵の見つける所となり司令部に届けられて、米国側を非常に驚かせた。内容が理路整然として、米側の反省を求めるものであり、米軍は報道管制を敷いて、暫くは報道させなかったが、後に「米国大統領叱責される」とマスコミで紹介された。

 この手紙は、「日本海軍市丸海軍少将書ヲ『フランクリン ルーズベルト』君ニ致ス。我今我ガ戦ヒヲ終ルニ当リ一言貴下ニ告グル所アラントス」から始まり、
大東亜戦争に至る経過を述べ、米国が日本を好戦国と称するのは「思ハザルノ甚キモノト言ハザルベカラズ」と断じて、日本天皇の平和を希求される御心を示し、日本の戦争目的は平和の希求であり、今外形的には劣勢であっても日本人の信念は微動だにしない事を述べている。

その理由として、白人のアジア侵略の経緯を記し、それに抗してわが国が東洋民族の解放を志して来た事を米国が悪意を持って妨害し日本を追い込んで来た経過を述べ、「卿等何スレゾ斯クノ如ク貪欲ニシテ且ツ狭量ナル。」と糾弾して反省を求め、大東亜共栄圏が世界平和と共存できる事を訴えた。更には欧州情勢に触れ、ヒットラーを倒した後、スターリンのソ連と共存できるのかと疑問を投げかけ、日本を叩き潰し世界制覇を成し遂げんとしているが、かつてウイルソン大統領が得意の絶頂に失脚した事を挙げ、「其ノ轍ヲ踏ム勿レ」と警鐘を鳴らして終わっている。

 史実に立脚した堂々たる文章である。それが、硫黄島の激戦下、地下壕の中で草された事に深い感動を覚える。正に大東亜戦争の大義であり、大義に対する市丸少将の確固不動の確信が伺われる。

武士道にとって最も大事なのは「大義」に他ならない。それを言葉に刻み永遠に残した市丸少将に心から感謝したい。





物資弾薬窮乏の中、来援機の安全を心配した仁将
わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。 (拉孟守備隊長金光恵次郎少佐打電)

 玉砕の戦場は、太平洋の島々だけでは無かった。ビルマ(ミャンマー)と支那との国境地帯にある拉孟・騰越の守備隊は、少数の兵力で守備地域=砦を死守すべく激烈に戦い抜いて玉砕している。

拉孟守備隊は1280人、それに対して押し寄せる中国の雲南遠征軍は4万8500人。拉孟守備隊の隊長は野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵次郎砲兵少佐だった。戦闘が行われたのは昭和19年の5月から9月である。当時インパール作戦が展開されており、その進撃ルートの北、要衝の地に拉孟・騰越は位置していた。拉孟・騰越の敗北は、インパール作戦の退路遮断を意味していた。

 拉孟北方での戦闘が開始されたのが5月11日、拉孟に対する雲南軍の第一次総攻撃は6月2日~7日、雲南軍7千を壊滅し、師長を戦死させた。更に6月14日から21日の戦いでも、甚大な被害を与えた。雲南軍は最精鋭の栄誉第1師(兵力8千・山砲6門・迫撃砲64門)を投入して包囲する。

友軍機による弾薬補給に対し、守備隊は「今日も空投を感謝す、手榴弾約百発、小銃弾約2千発受領す、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり」と打電している。7月4日~14日に雲南軍第二次攻撃、ロケット砲を始めとする新兵器も使って猛攻撃をかけるが陣地の一箇所も抜けず、損害は第一次にも増した。守備隊は、「今までの戦死二百五十名、負傷四百五十名、但し、うち休息百名を含む。片手、片足、片眼の将兵は皆第一線にありて戦闘中、士気きわめて旺盛につき御安心を乞う」状態だった。

7月20日より雲南軍第3次攻撃。7月下旬には、守備隊は重軽傷者も含め三百数十名となる。8月12日、拉孟守備隊に対し、制空権を奪われながらも弾薬補給を行わんと友軍の飛行隊が危険を冒して来援した。

その時、金光守備隊長は司令部宛に「わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。」と打電した。守備隊にとって弾薬はのどから手が出るほど欲しいものである。しかし、自分達の為に友軍機を危険に晒してはならないとの「仁愛」の情が金光隊長をして打電させたのだ。

8月23日の打電には「其の守兵片手片足の者大部」とある。それでも守備隊は9月7日まで戦い抜き持ちこたえた。







窮地にあっても他者に迷惑をかけず
ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス(騰越守備隊太田正人大尉訣別電報)

 騰越の守備隊は、2025人(隊長 蔵重康美大佐)、押し寄せる中国雲南軍は6個軍17個師団からなる7万2000人であり、実に36倍の敵だった。

19年6月27日に雲南軍は総攻撃を開始する。8月13日には、敵爆撃機の爆弾が司令部壕を直撃し、蔵重連隊長以下32人が戦死した為太田正人大尉が指揮をとった。

8月14日、雲南軍第二次総攻撃。太田大尉は敵の二個師団を相手に孤軍奮闘、更には「全員志気旺盛ナルニツキゴ安心アリタシ、ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス」と打電している。自らに与えられた任務を精一杯果たし、他に迷惑を及ぼさないという高潔なる責任感が横溢していた。

8月19日、雲南軍第三次総攻撃。それでも持ちこたえた。だが、守備隊には五体満足な者は少なく、負傷者も含めても六百名程度まで減少していた。

9月5日、雲南軍第四次総攻撃、そして、12日太田大尉は「現状よりするに、一週間以内の持久は困難なるを以て、兵団の状況に依りては、13日、連隊長の命日を期し、最後の突撃を敢行し、怒江作戦以来の鬱憤を晴らし、武人の最後を飾らんとす。敵砲火の絶対火制下にありて、敵の傍若無人を甘受するに忍びず、将兵の心情を、諒とせられたし」と訣別電報を発し、翌日騰越守備隊は玉砕した。

 雲南地方の日本軍を完全制圧した後、支那軍の蒋介石総統は第二十集団軍司令官霍中将に対し次の特別訓示を行った。

「戦局の全般は、わが軍に有利に展開し、勝利の曙光ありといえども、その前途いまだに遠く、多事多難なるものあり。今次日本軍の湖南省における攻撃作戦及び北ビルマ、怒江方面に対するわが軍の攻勢作戦の戦績をみるに、わが中国軍にしてきわめて遺憾にたえざるものあり。わが軍将校以下は、日本軍拉孟守備隊、あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘、最後の一兵にいたるまで、命令を全うしある現状を範とすべし」

 又、拉孟の戦闘終結後、雲南軍司令官李密少将は「私は軍人として、この得がたい相手と戦い得たということを誇りにも思い、武人として幸せであったと思う。」「かれらは精魂をつくして戦った。美しい魂だけで、ここを百二十余日も支えた。」と述べ、戦った日本人たちを丁重に葬ることを指揮下の将兵に命じた。


  




子孫に残した「清節」の生き様
我家において、皆に残し得る財産があるとしたら唯一、「清節を持す」ということだけであろう。(第十八軍司令官安達二十三中将子供宛遺書)

 玉砕戦を行うには至らなかったが、ニューギニア戦線の日本軍将兵も大変な辛酸を体験し、十四万人居た将兵の中で、二年九ヵ月の激戦を経て、祖国に戻る事が出来たのは一万人足らずだった。ニューギニアは日本の二倍の面積がある。補給が途絶する中飢えと疫病に苦しまされつつも能く士気を維持し戦闘を持続し得たのは、第十八軍司令官の安達二十三中将の人格と指揮に由来する。

 作戦の為、ジャングルの中を4500メートル級の山脈を越えて転進して来た将兵を安達中将は涙を流しながら自ら手を取って迎えたという。

安達中将の統率は、①純正鞏固な統率 ②鉄石の団結 ③至厳の軍紀 ④旺盛な攻撃精神 ⑤実情に即応する施策、という特徴があったと当時の参謀が述べている。

安達中将は現場の実情を重視し、直に将兵と触れ合っていた。部下が飢えや病気で次々と亡くなっていく姿は将軍の胸を痛め、いつしか将軍は「当時私は陣没するに到らず、縦令凱旋に直面するも必ず十万の将兵と共に南海の土となり、再び祖国の土を踏まざることに心を決した」(第十八軍将兵(光部隊残留)宛の遺書)のだった。

 終戦後、安達中将は戦犯としてラバウル裁判所に送られた。安達中将は総て自分の責任であると、起訴された部下の助命に尽力する。刑は無期禁錮となるが、昭和二十二年九月十日、ナイフで割腹して自決した。遺書には、「唯々純一無雑に陣歿、殉国、竝に光部隊残留部下将兵に対する信と愛に殉ぜんとするに外ならず」とその理由を記している。

子供達(一男二女)に当てた遺書には「今後は何時でも自ら職場に立って生き、自ら自分の進路を開拓して行く覚悟と腹をきめねばならぬ。(略)この腹さえしっかり定まれば、今後起る困難に際しても、動揺しなくなる。」「天は自ら助くる者を助く」「困難に対して受身にならず、進んでそれを打開することと、三人が互に励まし、互に慰め合って行くこと」「日本の国民として恥づかしからぬ人となること」を述べ、自らは、軍人としての節義の一点を守って来た事。「我家において、皆に残し得る財産があるとしたら唯一、『清節を持す』ということだけであろう。」と書き残している。

清節を貫き、部下に対する信と愛を貫いて現地に骨を埋めた高潔なる将軍が居た事を、私達は決して忘れてはならない。

武士道の言葉 その38 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」 その1 

$
0
0
「武士道の言葉」第38回 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その1 (『祖国と青年』27年9月号掲載)

男の崇高な美学

いさぎよく敵艦に体当たりした特別攻撃隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。(アンドレ―・マルロー)

 昭和四十九年夏、元リヨン大学客員教授で特別操縦見習士官三期出身の長塚隆二氏は、フランス文化相を務めた作家のアンドレ・マルロー氏を訪問、マルロー氏は特攻隊について次の様に語られたと言う。

「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。ス夕―リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別攻撃隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。」

「フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別攻撃隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。

私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別攻撃隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。」

 自虐史観に侵された日本人より、仏人の方が特攻隊の本質を言い当てている。特攻隊を志願した多くの青年達、彼らの真情は、残された膨大な手紙や日記や遺書を繙けば自ずと伝わって来る。そして、この様な潔い青年達が、七十年前の日本には多数居た事に改めて感慨を深くする。






自己犠牲

セルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の非常な特長である。(三島由紀夫「武士道と軍国主義」)

 昭和十四年生れの三島由紀夫氏は特攻隊に散った青年達と同世代だった。三島氏は生前、江田島の教育参考館を訪れ、特攻隊員の遺書の前で釘付けになり涙を流されていたと言う(岡村清三氏の話)。

 三島氏は昭和四十一年一月に書いた「日本人の誇り」の中で、「私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。すべて日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。」と記している。

更には、昭和四十五年に語った「武士道と軍国主義」の中で、「セルフ・リスペクト(自尊心)と、セルフ・サクリファイス(自己犠牲)ということが、そしてもう一つ、セルフ・リスポンシビリティー(責任感)、この三つが結びついたものが武士道である。」と述べ、「セルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の非常な特長である。」と話している。

 自尊心・責任感、そして自己犠牲、特に自己犠牲こそが武士道の武士道たる所以であり、三島氏はその最たるものを特攻隊の青年達に見出していた。

 三島由紀夫氏と親交のあったアイヴァン・モリス氏は『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』を著し、特攻隊の自己犠牲の行為を、日本の精神史の中で位置づけた。この本では、日本武尊・捕鳥部万・有馬皇子・菅原道真・源義経・楠木正成・天草四郎・大塩平八郎・西郷隆盛を扱い、最後を「カミカゼ特攻の戦士たち」で締めている。モリスは言う「特別攻撃隊員たちの場合、背後には武士の伝統がある。また日本という国のため生命を捨てた英雄精神がある。」と。

 戦後教育は、生命尊重=自己保全のみを教え、自己犠牲を忌み嫌い、対極にある特攻隊を誹謗し、貶めて来た。だが、国家社会にとって、共同体の為の自己犠牲の精神は崇高な事であり、かつ不可欠なのだ、眼に見えぬ自己犠牲によって社会は支えられているのだ。今日、東日本大震災等の体験によって漸く、真実を直視する眼が養われつつある。






志願から始まった特攻

戦隊長、敵空母群を特攻しましょう。(比島・飛行第三一戦隊「戦闘会議」)

 終戦七十年の今年、母校の済々黌同窓会でも同窓英霊顕彰祭が行われた。多士会館(同窓会館)には十年前に慰霊碑が建立され、その際に同窓十七柱の英霊に関する資料が小冊子にして配られており、その中に特攻ゼロ号の話がある。

 特攻隊の編成と出撃は昭和十九年十月二十日となっている。ところが、その一か月前の九月十三日早朝、小佐井武士陸軍中尉(済々黌昭和十四年卒)と山下軍曹の隼二機は、百瓩爆弾を装着して、レイテ東方の敵機動部隊空母に向けて特攻攻撃を行っている。事情はこうである。

 小佐井中尉は昭和十九年六月に中部比島ネグロス島の東北端のフアブリカ基地に展開、飛行第一中隊の第二小隊長を務め、隼戦闘機が愛機だった。九月十二日に、敵機動部隊のネグロス島攻撃が予想され、哨戒中に攻撃から帰還中の敵グラマン6F四十機、ノースアメリカ七十機と遭遇、中隊は敵十七機を撃墜した。

その日の夜、朝の戦闘体験から戦闘会議を飛行隊員全員で開いて議論した。その結果「敵のグラマン6Fは最高速度や旋回性能は隼と大差ないが、巡航速度から最高速度になる時間と上昇力には格段の差がある。敵機は二〇ミリ機関砲四門・十三ミリ機関砲四門に対し我が機は十三ミリ二門のみ。敵機の操縦席は厚い鋼板で囲まれ、タンクには厚い防弾装置があり中々撃墜できない。これらの現実と本日の戦闘体験により、敵との正面真面目の空中戦は、機数・性能・装備そのいずれの見地からも勝つ事は不可能と思われる。尚、軍司令部偵察機の報告によれば敵機動部隊は夜間黎明には哨戒護衛飛行は行っていない。」

そこで、結論として全員異口同音に「戦隊長、敵空母群を特攻しましょう。我々はもともと軽爆隊から襲撃隊となり戦闘隊となったのですから、超低空や急降下爆撃には習熟しています。この基地で戦っても全滅するのみです。また退避しても五十歩百歩です。それならむしろ我々は日本の国民に対して、愛機の戦闘機に爆弾をつけて体当たりしても戦っている姿を見せるのが、我々の任務でしょう」と述べた。

西戦隊長が特攻志願を募ると全員参加を希望。そこで師団司令部に電話で許可を求めるが許可が降りない。二時間に亘る声涙降る懇願の結果、マニラ湾で超低空艦船攻撃訓練を受けた小佐井中尉と山下軍曹二名のみ特攻の許可が降り、早朝五時に二機が出撃したのだった。






特攻の歴史の記憶が日本を甦らせる

後世において、われわれの子孫が、祖先はいかに戦ったか、その歴史を記憶するかぎり、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。(大西瀧治郎海軍中将が報道班員・新名丈夫氏に語った言葉)

 統率の邪道とも言える特攻作戦を正式に採用し「特攻隊生みの親」と称されたのが大西瀧治郎海軍中将である。何故、大西中将は特攻作戦を採用したのだろうか。

ミッドウェー海戦の敗北以来、熟練パイロットの減少が続き、飛行時間の短い戦闘機乗りが増加していた事。更には開戦当時圧倒的な優位を誇る戦闘機だったゼロ戦(海軍)や隼(陸軍)に勝る性能を持つグラマンなどが登場し、空中戦での戦果が期待できなくなりつつあった事。その様な中、現場から特別攻撃の要望が起こり、体当たり攻撃を実行する者達が出て来た事、などが上げられる。

 実際、特攻は当初それ迄に無い画期的な戦果を挙げた。昭和十九年十月二十五日のレイテ海戦からフィリピン海域での戦闘が終わる二十年一月三十一日までの戦果は、わが軍の損失(特攻機378機、護衛機102機)に対し、敵の損失は、轟沈16隻(護衛空母2、駆逐艦3、水雷艇1、その他10)損傷87隻(大小空母22、戦艦5、重巡洋艦3、軽巡洋艦7、駆逐艦23、護衛駆逐艦5、水雷艇1、その他21)というものであった。

 しかし、大西はこの作戦を展開しても戦況を覆す事は至難の業であると考えていた。大西は日本の将来を見据え、歴史を相手にして決断したのだった。『別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊』には大西中将が第一航空艦隊司令部付報道班員・新名丈夫氏に語った言葉として「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をするわけにはいかない。戦争は負けるかもしれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、祖先はいかに戦ったか、その歴史を記憶するかぎり、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。」と紹介されている。

 祖国に危難が迫った時、それに身命を賭して勇躍と立ち向う青年が陸続と生れて来るならば国家は守られる。だが、わが身可愛さのみで逃亡する者ばかりであったなら、他国に隷従するしかない。国家の独立とはその様にしてしか守られない。その勇気を抱く事を歴史は訴えているのだ。終戦七十年の八月十五日には、例年にも増して多くの人々が靖国神社や各県の護国神社に参拝した。それも若い人々が多かった。その姿の中に日本の未来があり、無言の内に他国に対する大いなる抑止力を示しているのである。

武士道の言葉 その39 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」 その2

$
0
0
「武士道の言葉」第三十九回 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その2(『祖国と青年』27年10月号掲載)

平和を愛するが故に戦いに参加する

平和を愛するが故に戦いの切実を知る也、戦争を憎むが故に戦争に参加せんとする   (古川正崇・『雲ながるる果てに』)

 九月十九日午前二時過ぎ、わが国の安全保障をより強固なものとする為の平和安全法制が漸く国会で議決され成立した。この間の国会審議が不毛に終始したのは、五野党がこの法案を「戦争法案」「憲法違反」と極め付け、問題の本質である安全保障問題を論議させなかったからである。「戦争」と「平和」、それは二律背反の命題では無く、相互に補完する関係にある。戦争の為に戦争を欲する者など殆ど居ない。平和を限りなく求めるが故に、現実世界に生起する戦争や紛争に対応し、克服と解決を期すのである。

 その事を、神風特別攻撃隊振天隊として沖縄で散華した古川正崇さんは「出発の朝(入隊に際して)」と題する詩に謳っている。

「二十二年の生  全て個人の力にあらず  母の恩偉大なり  しかもその母の恩の中に  また亡き父の魂魄は宿せり  我が平安の二十二年  祖国の無形の力に依る  今にして国家の危機に殉ぜざれば  我が愛する平和はくることなし  我はこのうえもなく平和を愛するなり  平和を愛するが故に  戦いの切実を知る也(や)  戦争を憎むが故に  戦争に参加せんとする  我等若き者の純真なる気持を  知る人の多きを祈る  二十二年の生  ただ感謝の一言に尽きる  全ては自然のままに動く  全ては必然なり」

 「我はこのうえもなく平和を愛するなり」の言葉が迫ってくる。大阪外国語学校に学び、その後決然として特攻隊を志願した古川さんの祖国・人生・学問の追求の上に、心の底から平和を希求するが故の、殉国の強い意志が生まれたのである。そして彼は敢然として沖縄に迫り来る米艦目がけて突入した。平和とは空理空論では実現できない。古川さんの言葉はその事を訴えている。




誇りと喜びと

今限りなく美しい祖国に、我が清き生命を捧げうることに大きな誇りと喜びを感ずる。 (市島保男・『雲ながるる果てに』)

 『雲ながるる果てに』は、戦歿学徒の遺稿集である。彼らは大学及び高専を卒業もしくは在学中に、海軍飛行専修予備学生を志願し、その多くは特攻隊として散華した若き学徒達である。戦前の日本では高等教育機関に進学した学生は同世代の一%未満であり、彼らは日本の将来を担うに足る学力を備え、かつその自覚を抱いて学業に励んでいた。第十三期は昭和十八年九月入隊、4726名、内1605名が戦歿した。第十四期は昭和十九年二月入隊(学徒出陣組)、1954名、内395名が戦歿。その多くは特攻隊将校として散華している。

 戦後『きけわだつみの声』という戦歿学徒の手記が逸早く発刊された。だが未だ占領軍による検閲制度下での刊行であり、戦友・遺族の中からは内容に疑問の声が出されていた。そこで昭和二十七年の講和独立を期し、戦友・遺族会(白鷗遺族会)が満を持して出版した本がこの遺稿集である。その後、学徒出陣組である十四期会が昭和四十一年に『あゝ同期の桜』を出版している。第十五期の海軍飛行予備学生だった私の父は『あゝ同期の桜』を生涯座右の書としていた。

 市島保男さんは、早稲田大学から学徒出陣し、神風特別攻撃隊第五昭和隊として沖縄で散華した。市島さんは「この現実を踏破してこそ生命は躍如するのだ。我は、戦に!建設の戦いに!解放の戦いに!いざさらば、母校よ、教師よ!」と記して学窓から旅立った。だが、彼はあくまでも冷静だった。「悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め己れの姿を視つめ古の若武者が香を焚き出陣したように心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。くるべきことが当然きたまでのことであるのに。」

 戦死五日前の昭和二十年四月二十四日の手記「隣の室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持でいたい。人間は死するまで精進しつづけるべきだ。まして大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。私は自己の人生は人間が歩みうる最も美しい道の一つを歩んできたと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情のお蔭であった。今限りなく美しい祖国に、我が清き生命を捧げうることに大きな誇りと喜びを感ずる。」





心卑しからず

心卑しからば外自ずから気品を損し、様相下品になりゆくものなり。 (石野正彦・『雲ながるる果てに』))

 神戸高等商業学校卒の石野正彦さんは、三重航空隊での訓練中に「自省録」を記した。

昭和十八年十月二十日「心卑しからば外自ずから気品を損し、様相下品になりゆくものなり。多忙にして肉体的運動激しくとも、常に教養人たるの自覚を持ちて心に余裕を存すべし。教養人なればこそ馬鹿になりうるなれ。馬鹿になれとは純真素直なれとの謂(いわれ)なり。不言実行は我が海軍の伝統精神なり。黙々として自らの本分を尽し、海軍士官たるの気品を存するが吾人の在るべき方法なり。吾今日痛感せる所感をあげ、もって常住坐臥修養に資せん。

一、黙々として己が本分を尽すべし。
二、海軍士官たるの気品を備うべし。
三、男子は六分の侠気四分の熱なかるべからず。

しかして、誠を貫くことは不動の信条なり。寡黙にしてしかも純真明快、凛然たる気風を内に秘め、富嶽の秀麗を心に描きて忘るべからず。」

 戦歿学徒の遺稿には、「死」を必然化した青年達の、凝縮した「生」に対する真剣な叫びが綴られている。

 慶応義塾大学出身で神風特別攻撃隊神雷部隊第九建武隊として戦死した中西斎季さんは「陣中日記」に次の様に記している。

「三月×日 死は決して難くはない。ただ死までの過程をどうして過すかはむずかしい。これは実に精神力の強弱で、ま白くもなれば汚れもする。死まで汚れないままでありたい。」

 これらの文章を読むと、特攻隊の青年達が如何に道を求め、特攻迄の短い日々を真剣に生き抜き、真剣勝負の日々を送っていた事が窺われる。

 同じく神風特別攻撃隊第一八幡護皇隊艦攻隊として南西諸島に散った、大正大学出身の若麻績(わかおみ)隆さんも次の様に記している。

「己だけ正しいのみならず、他をも正しくする。他を正しくせんためには、己は純一無雑の修行道を歩まねばならない。一歩行っては一度つまずき、延々とつづくその嶮路を歩まねばならない。搭乗員の生活はいかにもデカダンのように一般に思われている。(略)反対に日々の向上、日々の修養という事が大きく表われている。平和な時代に五十年、六十年をかけて円満に仕上げた人生を、僅々半年で仕上げなければならない。もちろん円満などは望むべくもなかろう。荒く、歯切れよく、美しく仕上げねばならないのだ。」






本当の日本男子

散るべき時にはにっこりと散る。だが生きねばならぬ時には石にかじりついても生きぬく、これがほんとうの日本男子だと思います。 (真鍋信次郎・『雲ながるる果てに』)

私はこの言葉を読み、幕末の志士吉田松陰を思い起こした。亡くなる年に松陰は、弟子である高杉晋作の問いに対し、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」と答えている。真鍋さんも松陰の事を勉強していたのかもしれないが、特攻隊の青年は二十二歳で松陰の境地に達している。真鍋さんは九州専門学校から予備学生を志願し、昭和二十年五月に南西諸島で散華した。

この言葉の少し前には「およそ生をうけたものはすべて死すべき運命をもって生まれてきております。必ず死ななければならないんです。(略)だから死すべき好機を発見して死ぬことができたならば大いに意義ある人生を過ごしえたことになると思います。御国のために死ぬということは天地と共に窮りなき皇国日本と、とこしえに生きることであると思います。」と記している。

 中央大学出身で神風特別攻撃隊神雷第一爆戦隊として沖縄方面で散華した溝口幸次郎さんは、自らの人生について次の様に記している。「生まれ出でてより死ぬるまで、我等は己の一秒一刻によって創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞうをきざみつつあるのです。(略)私の二十三年間の人生は、それが善であろうと、悪であろうと、悲しみであろうと、喜びであろうとも、刻み刻まれてきたのです。私は、私の全精魂をうって、最後の入魂に努力しなければならない。」

 「最後の入魂」とは素晴らしい表現である。特攻隊員の多くは、自らの人生を祖国日本に捧げる事を決意し、特攻までの残された人生の時を、最後の成功を期して猛訓練に励みつつ、自己完成を目指して精進している。『雲ながるる果てに』には、最高学府に学びかつ国家の運命を莞爾として受け止めて特攻隊を志願した当時の二十代前半の青年達の求道の記録が刻まれている。学問の道に進んだ彼らの本質は文人である。しかし彼らは、祖国防衛の為の武人たるべく立ち上がり、戦いに身を投じた。死ぬまで道を求め続けた彼らの姿の中に、文武両道を目指す日本武士道の精華を見出すのである。

 人間一人一人に与えられた人生の時間は限られている。私にも残された時間は少ない。二十数年の時間しか与えられなかった特攻隊の青年達の、真剣なる生の表白に真向かうとき、粛然として襟を正され我が身を省みさせられるのである。

「武士道の言葉」その40 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その3

$
0
0
「武士道の言葉」第四十回 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その3(『祖国と青年』27年11月号掲載)

美しき祖国への信

神州の尊、神州の美、我今疑ハズ、莞爾トシテユク。萬歳。 (黒木博司海軍少佐「遺書」)

 昭和十八年になると、米軍の反転攻勢が強まり、不利な戦況を挽回するには物量の差を跳ね返す様な「一人千殺」の必勝兵器の開発が必要との声が、現場の潜水艦将校の中から起って来る。その様な中、呉軍港外の秘密基地にあって甲標的(特殊潜航艇)の艇長教育を受けていた黒木博司中尉と仁科関夫少尉は、世界最優秀の九三式魚雷を改造する人間魚雷の構想をまとめ上げ、その構想を実現すべく海軍省軍務局に出頭して膝詰め談判を行った。昭和十八年十二月二十八日の事である。
だが、その情熱は諒とするも、「必死必殺」の人間魚雷の採用には軍当局も難色を示し、許可は下りなかった。それでも二人は血書、上申を繰り返す。試作艇の開発が始まったのは十九年二月二十六日。七月下旬には完成し、黒木大尉・仁科中尉が試乗。八月一日、海軍大臣の決裁が下り、『回天一型』が誕生した。

 人間魚雷を操縦して狭い水道や種々の難関を突破して敵艦に見事体当たり出来る為には搭乗員に対する、心技体の向上訓練が欠かせなかった。訓練の一回だけで黒髪が真っ白になる程心身を消耗したとの話があるが、余程の精神力・使命感・胆力・平常心が備わらなければ人間魚雷での戦果を挙げる事は出来ない。その訓練の先頭に立ったのが黒木大尉だった。

 ところが、十九年九月六日十八時二分、黒木大尉と樋口大尉が乗る回天は、訓練中に海底に沈坐し、操縦不能となる。黒木中尉は迫り来る死と戦いながら遺書を認めた。「事前ノ状況」「応急措置」「事後の経過」「追伸」と後生に托す為に、問題点を考察して書き続けた。そして七日四時四十五分「君ガ代斉唱。神州の尊、神州の美、我今疑ハズ、莞爾トシテユク。萬歳。」と記し、六時「猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。萬歳」と書き絶筆した。黒木少佐の神州不滅の絶対の信こそが回天を生み出したのである。




今日のこの日の為に

   明治天皇御製
あらはさん秋は来にけり丈夫がとぎしつるぎの清きひかりを(義烈空挺隊・町田一郎陸軍中尉)

 陸上自衛隊西部方面総監部がある熊本市の健軍駐屯地の中に「義烈空挺隊」の慰霊碑があり、毎年五月二十四日には自衛隊の主催で慰霊祭が行われている。

 昭和二十年五月二十四日、健軍飛行場を飛び立った十二機(各十四人搭乗)の九七式重爆撃機は沖縄を目指した。沖縄に上陸した米軍の北(読谷)飛行場、中(嘉手納)飛行場を強襲して破壊する事がその任務だった。十二機中一機は北飛行場に突入成功、七機が撃墜され、四機は突入を断念し引き返した。胴体着陸した爆撃機に搭乗していた空挺部隊は、敵戦闘機二機、輸送機四機、爆撃機一機を破壊し、二十六機に損傷を与え、ドラム缶六百本の集積所二か所を爆破、七万ガロンの航空機燃料を焼失させた。

 元々、義烈空挺隊は、日本の各地を空襲するB29爆撃機の発進基地である、サイパンのアスリート飛行場の破壊を主任務として編成された。だが、中継基地である硫黄島の戦況悪化により、沖縄戦への投入となったのである。空襲に苦しむ国民の仇を討つ可く、爆撃機の飛行場への特別攻撃隊として編成されたのだ。義烈空挺隊は、陸軍挺身第一連隊(空挺落下傘部隊)の一箇中隊(隊長・奥山道郎大尉)と、隊員達を載せて敵飛行場に強行着陸する第三独立飛行隊(隊長・諏訪部忠一大尉)で編成された部隊である。

 挺身部隊はレイテ島の戦いで各地の飛行場に空挺作戦を行い成果を挙げていた。戦争末期の七月には、サイパン・グァムへの陸海合同での空挺攻撃、原爆投下後は原爆集積地であるテニアン島への空挺作戦も立案された。
 町田一郎中尉は、第三独立飛行隊所属で、義烈空挺隊四番機の操縦手である。その四番機が唯一突入に成功し、多大な戦果を挙げた。町田中尉は、群馬県出身の二十二歳だった。

掲載した歌は、昭和十九年中頃、挺進練習部の構内にあった独身将校宿舎の廊下に張り出されたものだと言う。町田中尉は、明治天皇御製「あらはさむときはきにけりますらをがとぎし剣の清き光を」(明治37年)を自らの信條として、書き写されたのであろう。顕すべき決戦の時に向って、日々訓練に励み、力量を高め上げて行ったその誇りと決意が、この御製に映し出されたのである。中尉が磨き上げた剣の清き光は敵を斃し、赫々たる戦果を顕した。

 吾々も人生の勝負の時に備えて、日々魂と力量とに磨きをかけて、国家社会に役立つ日本人に成らねばならない。



一気に登り極めんこの一筋の道を

数々の道はあれども一筋に登り極めん富士の高嶺を(第16独立飛行中隊・小坂三男陸軍中尉)

 B29爆撃機を中心とする無差別絨毯爆撃は沖縄以外にも46都道府県428市町村に対して行われ、その死者数は56万2708人(ウィキペディア・朝日新聞社『週刊朝日百科 日本の歴史 12 現代 122号・敗戦と原爆投下』)に達している。史上稀にみる無差別殺戮を米国は敢行したのである。

 B29は完全与圧室を装備し、高度一万メートルでも乗員は酸素マスク無しで操縦が出来た上に、最大速度は576キロでゼロ戦よりも速かった。超高空に飛来して爆撃するB29には高射砲も届かず、防弾装備が優秀で20ミリ機関砲でもあまり効果が無かった。それ故、体当たりして落とす他に道が無かったのである。B29に最初に体当たり攻撃をしたのは、十九年八月二十日山口県の小月飛行場第4戦隊の野辺重夫軍曹だった。同年十一月七日、帝都防空担当の陸軍第10飛行師団は隷下の各飛行戦隊に各四機宛の体当たり特攻隊を編成させ、震天制空隊と命名した。

 超高度で飛来するB29に対して体当たり攻撃をするにはかなりの技量が必要となる。しかも、装備品を出来るだけ軽くした上に、酸素マスクを着用しての急上昇である。だが、その一方では、体当たり直後に脱出し、落下傘で生還する事が可能でもあり、抜群の技量を持つ操縦者には生還が求められても居た。

 帝都防衛の陸軍飛行第244戦隊は、撃墜84機(B29は73機)撃破94機(同92機)という大きな戦果を上げている。小林戦隊長を始め数名のパイロットは二回体当たりを敢行し、生還している。熊本出身の四宮徹中尉は昭和十九年十二月三日、来襲したB29に三式戦闘機を以て体当たりし、左翼の半分が千切れたが無事帰還している。中尉はその後、第19振武隊隊長となり四月二十日に沖縄で特攻、散華している。

 小坂三男中尉は関西・中京地区の防空に当る第16独立飛行第82中隊に属し、二十年一月三日、堺市上空でB29に体当たりして散華した。小坂中尉のこの歌には、超高空を飛ぶB29爆撃機に真直ぐに向って上昇する戦闘機の一筋の姿が映し出されていると共に、富士の高嶺に象徴される丈夫の気高き生き方に肉迫せんとする、高き志と強靭なる意志が映し出されており、空対空特攻隊員の心意気が見事に表現されている。



日本人の永遠の生命

来る年も来る年も又咲きかはり清く散る花ぞ吾が姿なる(第141振武隊長・長井良夫陸軍中尉)

 鹿児島には海軍特攻隊が出撃した鹿屋・指宿、陸軍特攻隊出撃の知覧・万世など、様々な所に特攻隊の慰霊碑が建立されている。特に知覧と鹿屋は有名で、遺書や遺影なども数多く展示され、特攻隊を偲ぶ聖地となっている。

知覧の兄弟基地である万世は、戦後長い間、世の人の記憶から忘れ去られていた。万世に慰霊碑が建立され、初めての慰霊祭が斎行されたのは昭和47年の事である。慰霊祭を契機として遺族の方々が持たれていた遺稿や遺影が明らかとなり、昭和49年に慰霊戦記『よろづよに』(430頁)が出版される。この出版によって遺族の輪が更に広がり、昭和51年には改訂増補版として『万世特攻隊員の遺書』(478頁)が刊行される。その様な中で特攻遺品館の建設構想が生まれ、一億円の浄財募金が集まり、更に地元の加世田市が二億五千万円を追加計上して、市の事業として特攻遺品館(平和祈念館)が平成五年に完成した。それに併せて『陸軍最後の特攻基地 万世特攻隊員の遺書・遺影』(529頁)が出版された。更に平成二十三年には集大成版である『至純の心を後世に 陸軍最後の特攻基地・万世』(561頁)が出版された。

これら一連の事業を起案し推進されたのが、飛行66戦隊所属で、万世飛行場で沖縄特攻作戦に従事し特攻隊の発進援助に当っていた苗村七郎氏である。戦後大阪に戻った苗村氏は、昭和三十五年の鹿児島再訪以来、平成二十四年に九十一歳で亡くなる迄、終生万世特攻隊の慰霊顕彰に尽くされた。

 万世では、桜花爛漫の四月下旬に毎年慰霊祭が斎行されている。桜の如く散った特攻隊員の御魂を偲ぶ最良の時であるからだ。万世から飛び立ち、二十二歳で散華した第141振武隊隊長の長井良夫少尉(宮城県出身)の辞世は、特攻隊員の心象を美しくも見事に表現している。長井少尉の魂は、毎年毎年咲き代わり、咲いては散り、散っても翌年再び咲き匂う桜と化し、永遠の大和魂に成っている。長井少尉の生命は個としてではなく、桜の木々に亘る大生命へと溶け込んでいる。

国の生命とはその様なものではないのだろうか。祖国日本の永遠を信じて生命を捧げた者達は、国の生命と一体となり、祖国日本の永遠によって無窮の生命を得るのである。特攻隊員たちが身を捧げて守らんとした祖国日本の生命を私達も守り抜き、祖国の生命に何時の日か帰し得る人生を全うしたい。

「武士道の言葉」その41 大東亜戦争・敗戦の責任を果した将兵 その1

$
0
0
「武士道の言葉」第四十一回 敗戦の責任を果した将兵 その1(『祖国と青年』27年12月号掲載)

敗戦の責

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル(陸軍大臣 阿南惟幾)

 昭和二十年八月十五日、国家の総力を尽して戦い抜いた大東亜戦争は、昭和天皇の御聖断によってポツダム宣言を受諾し終結した。国家未曽有の敗戦である。

 首都ベルリンが陥落したドイツと違い、当時の日本は沖縄を失ったものの、昭和十九年末から準備した二千八百万名に及ぶ「国民義勇隊」を組織化し、更に「国民義勇戦闘隊」の編成に着手していた(藤田昌雄『日本本土決戦』潮書房光人社)。本気で「一億総玉砕」・徹底抗戦を準備していたのである。更には、支那大陸では連戦連勝していた百五万人の支那派遣軍が健在だった。岡村寧次総司令官は八月十一日に「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」との電文を中央に送っている。

 これらの戦力を背景に阿南陸軍大臣は、御前会議に於て徹底抗戦を主張した。だが昭和天皇は、これ以上の犠牲を見るにしのびない、自分の身はどうなろうとも国民を救いたいとの大御心を示され、終戦の御聖断が下された。かつて侍従武官を務めた事もある阿南陸相は陛下にとりすがって号泣したが、陛下も涙を流しながら「阿南、阿南、お前の気持は良く解る」と仰せになった。御聖断の後に閣議が開かれ、国家としての終戦が決定する。阿南陸相は署名し花押を認めた。

 これからが、阿南陸相の本領発揮である。徹底抗戦を主張する陸軍の急進派の前に立ち塞がって陛下の御意志である終戦を実現せねばならない。阿南陸相・梅津参謀総長連名で告諭を発し、省内の将校を集めて決意を述べ、「不満に思う者は、まず阿南を斬れ」と付け加えた。そして、八月十四日深夜、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」との遺書を認め割腹自決した。遺書の裏には「神州不滅ヲ確信シツゝ」と付け加えてあった。





特攻隊勇士への責任

特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。 (海軍中将 大西瀧治郎)

 特攻隊の生みの親である大西瀧治郎海軍中将は、特攻隊を送り出す度に胸を痛め、自らも必ず後に続く事を心に誓っていた。終戦が決まった八月十五日の深夜二時頃、官邸にて割腹自決、腹を十文字にかき切り、返す刀で頸と胸と刺した。それでも数時間は生きており、翌朝発見され駆け付けた軍医に「生きるようにはしてくれるな」と述べたと言う。絶命したのは十時頃だった。

 遺書は五通あったといわれているが判然とはしていない。その中で明らかになっているのが次の遺書である。

「特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨に副ひ奉り、自重忍苦するを誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ。諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為
最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎        」

欄外に「八月十六日 
富岡海軍少将閣下   大西中将
御補佐に対し深謝す。総長閣下にお詫び申し上げられたし。別紙遺書青年将兵指導 上の一助とならばご利用ありたし
               以上」と記されていた。

更に奥様の淑恵さんに宛てた遺書。

「淑惠殿へ
 吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す。淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
              以上
之でよし百萬年の仮寝かな 
    」
奥様宛の遺書は丸みを帯びた優しい文字で綴られていた。





日本学生協会出身将校の自決

魂魄トコシヘニ祖國ニ留メテ玉體ヲ守護シ奉ラム(海軍少尉 寺尾博之)

 福岡市の郊外にある油山の油山観音から少し登った奥まった所に、終戦後自決した二人の海軍軍人の顕彰碑が建立されている。建立されたのは昭和三十三年八月二十日、爾来この碑の前で国民文化研究会の方々によって慰霊祭が執り行われて来ている。自刃した二人は、長島秀男中佐と寺尾博之少尉である。寺尾少尉は高校在学時より、国民文化研究会の前身たる日本学生協会の学風改革運動に挺身され、全国各地の高校・専門学校巡回のメンバーとしても活躍されていた。

私はかつて、故名越二荒之助先生から戴いた葉書に「多久さんの文章に触れ、その行動、発言、文章に触れる度に想起するのは国文研の前身、学生協会時代の寺尾博之さん(いのちささげて前篇)です。多久さんには寺尾さんの魂がのり移ったのではないか。輪廻転生を信ずるようになりました。寺尾さんは小生より二歳年長で仰ぎ見る存在でした。終戦後の油山で長島中佐の介錯をし、自らは腹十文字に突いて自決しました。彼の生前のさわやかで謙虚、そして透徹した雄弁、論文の見事さ、多久さんとダブって仕方ありません。御健闘祈上つゝ」(平成十八年三月十七日)とあり、寺尾少尉の事が深く思われてならない。顕彰碑の碑文。

「昭和20年8月15日、大東亜戦争終戦の大詔下るや、九州軍需管理部に所属せる海軍技術中佐 長島秀男、海軍少尉 寺尾博之は8月20日未明、この地において遥かに皇居を拝し古式にのっとりて割腹自刃せり。
長島秀男中佐は埼玉県秩父郡横瀬村出身、東京文理科大額を卒業、昭和12年身を海軍に投じ技術部門における改良に尽力航空魚雷の研究においては当代の第一人者たりき、行年39歳、遺書に曰う

唯二、上御一人の御心を悩まし奉り候のみならず、一億国民を難苦の底に沈ませ候事誠に申し訳無之、所詮死を以って
お詫び申すべき次第に候

寺尾博之少尉は京都市出身 旧制高知高等学校より東京帝国大学農学部に進みしが、高校在学時よりわが国の思想伝統を仰ぐ事深切、全国の学生有志と共に学風の改革に挺身せり、

昭和18年12月学徒出陣、海軍に入る、行年25歳、遺書に曰く
一死以て臣が罪を謝し奉り 併せて帝国軍人たるの栄誉を保たんとす 願わくは魂魄とこしえに 祖国に留めて 玉体を守護し奉らむ
両烈士の純真、至誠、温容なほここに在りて我等を先導し給うごとし、ここに有志一同 その志を仰ぎ祖国日本の恒久を願ひて之を建つ
長島 寺尾両烈士顕彰会」





父の上官の自決

故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ (松浦勉海軍大佐の訓示)

 私の父は、終戦六十年の平成十七年十一月に亡くなった。その時皆さんから戴いた香典の一部を、父が最期まで気に止めていた靖国神社に寄付を申し出た。その時、神社側から何方かの永代供養をされたら如何ですかとの有り難いアドバイスを戴いた。そこで、昭和二十年八月二十八日に自決して亡くなられた松浦勉海軍少佐の事が思はれて永代供養させて戴いた。松浦少佐は父の上官だった。

 父は、熊本師範学校から学徒出陣し、第十五期海軍飛行予備学生になった。土浦航空隊で訓練に励んだが、土浦が空襲を受けた後は福井県に移動し、九頭竜川河口グライダーによる特攻訓練をしていた。学生達は丁度二十歳前後であり、血気盛んだったという。敗戦が決まるや、学生達はマッカーサーの本土上陸時の斬り込みを志願していたという。その時、上官の松浦少佐が、「終戦の大詔が降った以上、お前達は陛下の大御心に従って、祖国の為に力を尽くさねばならない。各自、故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ。」
と諭されたと言う。

松浦少佐は当時三十歳前後であるが、学生達は心の底から心服していた。それ故、父は泣く泣く熊本に戻り、熊本の教育界で人づくりに尽力した。所が、松浦少佐は学生達を送り出した後、米占領軍先遣隊が厚木に進駐した八月二十八日に、福井県坂井郡芦原町(現あわら市)の水交社で自刃された。予備学生達の思いを一身に担って敗戦の責をとられたのである。

 私は、永い間この事実を知らなかったが、大学生になって祖国再建運動に尽力する様になってから父は当時の事を話す様になった。それでも、少佐の事は父が教え子の方に話したのを横で聞いたのが初めてである。

昭和六十一年に福井県に行く機会が有り、その時芦原町を訪れ、父が訓練していた海岸や街を訪ねた。その時に逢った方が、昭和二十年頃は海軍の学生さん達が一杯居ましたとの話をして下さり。松浦少佐の事を述べると、何と御存知で、松浦少佐が下宿されていた部屋に案内して戴いた。松浦少佐の御魂が導いて下さったのであろう。そして、水交社跡も訪れ祈りを捧げた。だが、慰霊碑も何も残ってはいなかった。『世紀の自決』には、遺影と奥様が記された事実関係のみの短い文章が掲載されているだけである。少佐は岡山県笠岡市大宜の御出身とある。父達を教え諭した松浦少佐が居られたが故に、今の私もある。

「武士道の言葉」その42 敗戦の責任を負い自決した将兵 その2

$
0
0
「武士道の言葉」第四十二回 敗戦の責任を負い自決した将兵 その2(『祖国と青年』28年1月号掲載)

日本人を慕って自決したインドネシア青年に殉じた軍人の情愛

カリムが可哀そうなので一緒に逝きます。 (陸軍憲兵曹長 上遠野勇吉)

 昭和二十年八月二十八日、ジャワ駐屯第十六憲兵隊の上遠野勇吉陸軍曹長(二十八歳・福島県出身)は、憲兵補ラデン・アブドル・カリムの墓前で拳銃自決した。鉛筆の走り書きの遺書には「皆様、大変お世話になりました。カリムが可哀そうなので一緒に逝きます。死体はカリムのそばに埋めて下さい」とあった。

 敗戦に伴い、現地で日本軍に協力していたインドネシア憲兵補達は除隊となった。事情を説明し、家を買い与えるなどそれぞれの身の振り方を決めて、八月二十四日に除隊式が行われた。皆から弟の様に可愛がられていたカリムは、マドラ貴族出身の二十歳、日本に連れて行って欲しいと懇願していた。だが、それは叶わなかった。二十五日朝、カリムは憲兵隊に行き憲兵補の服装のまま自決してしまった。ワイシャツに「大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳」と日本語で記し、マレー語で次の遺書が残されていた。

「私はインドネシア独立と日本戦勝の為、またマドラ防衛の為、決死の覚悟で日本軍と共に闘って来ました。が、日本軍は今帰国しようとしています。私は一緒に日本へ行きたいのですが、許されません。私は悲しくてなりません。私は日本軍の指導に対し全インドネシア青年を代表し、血を捧げて御礼申し上げます。大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳」

 上遠野曹長は、愛すべき「弟」の死に殉じたのである。「人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん」(魏徴)という言葉があるが、当時の日本人には「意気に感じる」優しさがあり、生命を擲つ勇気と行動力があった。大東亜戦争時の日本人は、強くて優しかった。その事は、アジア各地での現地人の協力の姿が示している。大日本帝国に身を捧げた現地青年に殉じた上遠野曹長、日本とインドネシアの絆の実証として永遠に語り継いで行きたい。






敵に「武器」を渡す屈辱

武人の節を穢し 誠に申訳なし (海軍大尉 小山悌二)

 「日本刀は武士の魂」と言う様に、武人にとっての武器は、戦いを遂行する「魂」にも等しかった。

終戦後、ヤップ島警備隊の小山悌二海軍大尉(二十二歳・長野県出身)は、武器弾薬の米側への引き渡し作業の責任者として率先垂範、九月二十四日、作業終了を見届けた後、翌二十五日午前四時頃士官寝室にて軍服着用のまま宮城に向って正坐し、日本刀を以て自決した。遺書には「武人の節を穢し 誠に申訳なし」とのみあった。

自刃時に使用した日本刀は、父親が学生時代に柔道大会優勝の際に特別賞として貰った慶長新刀常陸守藤原寿命を軍刀として仕上げた名刀で、海軍兵学校最終学年時の十七年夏の帰省時に餞として贈られたものだった。小山大尉は十八年正月に「今年の覚悟 卒業と共に第一線に立つべき意気込みにてまず学業に専念せん 一日一刻を全精神を集中すること 明朗快活 努力 人を正面より見ること 団結協力 臍の力」と「自啓録」に記している。大尉は強き意志の人であった。

 九月十八日未明、済州島漢拏山谷口隊陣地では、野戦重砲十五連隊第三中隊長の谷口章陸軍大尉(二十二歳・滋賀県出身)が自決した。当日は大尉の預かる十五榴弾砲四門とその附属兵器とを米軍に引き渡す日だった。その六日前、谷口大尉は同期生の石橋大尉に「祖国は亡びた。祖国と運命を共にするのが、市ヶ谷台の精神だ。皇軍将校はこの際、一死以て天皇陛下にお詫び申上げるべきだ。また、大砲引き渡しも決定した今日、砲兵中隊長は火砲と運命を共にするのが皇軍砲兵の伝統精神に生きる道と思う。従って自分は、すでに散華した多数同期生の後を追う積りだ。」と語っていたと言う。

 武器引き渡しに際し、事務上の食い違いから責任を取って自決した将校も居た。第二十六野戦航空修理廠の金原重夫陸軍少尉(三十二歳・静岡県出身)である。金原少尉は漢口で武器引き渡し業務を担当していた。だが、数量に意外な相違が生じ折衝は難航、部隊は苦境に立たされた。その時、消耗品出納責任者であった少尉が、一切は自分の責任であるとして、九月二十一日午後八時に天皇陛下万歳と叫びつつ拳銃で自決した。この事があってから中国側の態度は一変し、移譲は円滑に進行したという。正に、金原少尉の生命を捧げた至誠が敵兵をも感動せしめ、部隊を救ったのである。






夫婦・家族で大日本帝国に殉じた人々

我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり (海軍大尉 長瀬 武)

 『世紀の自決』(芙蓉書房)の第二部には、夫婦、更には家族で、大日本帝国の終焉に殉じた十二夫妻の事が記されている。明治天皇に殉じた乃木将軍夫妻の如く、夫の殉国の決意を妻も受容し、更には自らの意志で同行を決意している。

 終戦時、佐世保軍需部に勤務していた長瀬武海軍大尉(三十歳・石川県出身)は外志子夫人と共に、八月二十一日午前零時、佐世保前畑火薬庫裏の丘上にて自決した。大尉は海軍の正装、夫人はモンペ姿だった。共にポケットの中に日の丸の旗(外志子夫人のお母様が結婚式の際に与えられたもの)が入れてあった。

長瀬大尉は自決当日母方の伯母に次の遺書を送っている。

「有難き陛下の大御心、一点の疑もなし、涙もて拝す、余りにも大君の恵多く幸福すぎし余の三十年、我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり、妻の一徹亦固きものあり。僅か二年の余の教育による妻の決意如何ともなし難し、御厚情を深謝す」

 同日、外志子夫人は母鹿谷初子氏宛に遺書を発送している。

「母上様、いよいよ最後の時が参りました。大詔を奉戴いたしまして天皇陛下の有難き御言葉本当にもったいなくて身のおきどころもございません。でも私達は最後までもっともっと頑張りたかったとそれのみです。舞鶴にて御別れ致しましたのが最後でございました。私の決心どおり致します。佐世保にも敵が参ります。上陸致しましてからはどんな目にあわされるか判りません。貞操をやかましく言われ教育されて参りました私にはどうしても耐えてゆかれません。これが私の思いすごしでございましたらどんなに嬉しいでしょう。私は只それのみ念じて行きます。主人の身も当然覚悟致しております。私にとりまして、どうして耐えてゆかれましょう。(中略)今まで幸福に暮して参りまして私はほんとに幸福だったと喜んでおります。嫁ぎましてから二年間も本当に幸福に暮しました。今は決心どおり身を処しましても私は幸福な人間です。母上様何とぞ御安心下さいませ。気持は落ちついて安らかな気持でおります。母上様も何とぞ御体大切に遊ばしまして国体護持の為頑張って下さいませ」

外志子夫人はミス金沢と呼ばれた程の麗人だったと言う。身も心も美しき大和撫子の決意の自決だった。






貞操を守る為に集団自決した従軍看護婦達

私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。 (新京 第八陸軍病院 陸軍看護婦二十二名)

 昭和二十一年六月二十一日朝、満州・新京(長春)第八陸軍病院で、監督看護婦井上鶴美氏(二十六歳)以下二十二名の看護婦が青酸カリを飲んで自決した。

 当時、新京はソ連軍の占領下にあったが、三十四名の日本人従軍看護婦達には新京第八病院での勤務が命じられていた。ところが、二十一年春、城子溝にあるソ連陸軍病院の第二赤軍救護所から、三名の看護婦の応援要請命令が来た為、三名を選抜して派遣。その後も追加要請があり、十一名が送られた。

更に四回目の申し入れがあり、対応を協議していた六月十九日夜、最初に派遣した大島はなえ看護婦が瀕死の重傷で戻り「私たちは、病院の仕事はしないで毎晩毎晩ソ連将校のなぐさみものにされているのです。否と言えば殺されてしまうのです。殺されても構わないが、次々と同僚の人たちが応援を名目に、やって来るのを見て、何とかして知らせなければ、死んでも死にきれないと考えて脱走して来たのです。」と述べた。そして、「婦長さん!もうあとから人を送ってはいけません。お願いします」との言葉を最後に息を引き取った。

翌日曜日に大島看護婦を土葬し、その夜、残って居た看護婦二十二名は自ら死を選んだ。満州赤十字看護婦の制服制帽を着用して、胸のあたりで両手を合わせて合掌をし、脚は紐できちんと縛られていた。遺書には次の様に記されていた。「二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再びこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、ここの満州の土にして下さい。」と。続けて全員の手書きで名前が記されていた。汚れ物は総てボイラー室で焼却してひとつも残されて居なかった。日本女性の身だしなみだった。

 敗戦に伴い、国家の庇護が失われた時、最大の悲劇が襲うのは女性達である。当時、福岡には二日市保養所という、朝鮮引揚げ女性の為の堕胎病院が特別に設置され四、五百名の女性達が手術を受けている。わが国の女性達がロシアやシナ、朝鮮によって受けた惨劇は歴史の陰に隠され、慰安婦の補償のみが声高に叫ばれている。祖国に殉じて若き生命を断った女性達の事を決して忘れてはならない。

「武士道の言葉」その43 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その1

$
0
0
「武士道の言葉」第四十三回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その1(『祖国と青年』28年2月号掲載)

一切の戦歿者の供養を以て世界平和の礎に

今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民羅災者の一大追悼慰安祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたい (『世紀の遺書』東条英機「遺言」より)

 大東亜戦争に敗北した日本軍に対し、連合国は「復讐心」を満足させる為に、東亜五十一か所にて「戦犯裁判」なるものを行い、五六七七名の日本人を逮捕して裁判にかけ、一〇六八名の日本人を殺害した。裁判官に加え弁護人迄もが戦勝国側であったこれらの裁判では、元より公平さなど望めなかった。

 裁判で有名なのは所謂「A級戦犯」(国家指導者)を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)である。日本近代史を「侵略」の名の下に処断した東京裁判は、起訴が昭和天皇誕生日、判決が明治天皇誕生日(実際は少しずれた)、処刑が皇太子殿下(現在の今上天皇)誕生日に合せて行われた。正に、日本弾劾の為の一大プロパガンダだった。大東亜戦争開戦時の首相だった東条英機は天皇陛下に責任を及ぼさない為に、公判上で起訴状に対する反論を堂々と陳述した。大東亜戦争は米英によって陥れられた戦争であり、わが国の東亜政策は決して間違っておらず、世界制覇の野望など微塵も無かった事を事実にそって綿密に反証した。だが、それは無視された。

 死刑判決を受けた東條は遺言で「今回の刑死は、個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て贖えるものではない。しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負つて満足して刑場に行く。」と記し、国際的には無罪だが、日本国民に対する「敗戦責任」を負って死ぬ事を述べている。

 更に東条は、「今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民羅災者の一大追悼慰安祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。」と記している。自分たちの犠牲によって敵味方の憎悪の炎が収まり和解して、真の世界平和が訪れる事を願ったのである。






良心に曇りなし。

私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思ふ。 (『世紀の遺書』本間雅晴「辞世」)

 昭和二十一年四月三日、フィリッピン・マニラ市のロス・バニヨス刑場で、本間雅晴元陸軍中将は銃殺刑に処せられた。五十九歳だった。

本間中将は、開戦当時第十四軍司令官としてフィリッピンを制圧してマッカーサー元帥を敗退させた。フィリッピンに膨大な土地を保有していたマッカーサーは「I Shall Return(私は、必ず戻って来る)」と嘯いてフィリッピンを後にした。戦勝後、その恨みの矛先が本間中将に向けられた。「バターン死の行進」なるものをでっち上げたのである。

確に、長期籠城戦後に衰弱していた捕虜を収容所に移動させる為にバターン半島を移動させ、その途中で数多くの捕虜が亡くなったが、それらの捕虜の死因の殆どは赤痢やマラリアだった。それを「死の行進」を企図していたとして裁いたのである。

 本間は子供三人に宛てた手紙で次の様に述べている。「死刑の宣告は私に罪があると云うことを意味するものに非ずして、米国が痛快な復讐をしたと云う満足を意味するものである。私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思ふ。戦友達の為に死ぬ、之より大なる愛はないと信じて安んじて死ぬ。」と。

「日本国民は全員私を信じてくれると思ふ」の言葉が重い。自虐史観から脱却出来ない戦後教育は、本間の確信を裏切る青年を未だに輩出している。

 マニラ法廷で感動的な事が起った。本間の妻・富士子がマニラ迄来て証言台に立ったのである。

角田房子『いっさいは夢にござ候』はその時の言葉を次の様に描いた。弁護人からの「あなたの目にうつる本間中将はどのような男性か」との尋問に対し、富士子は「わたしは東京からマニラへ、夫のためにまいりました。夫は戦争犯罪容疑で被告席についておりますが、わたしくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。わたくしに娘が一人ございます。いつかは娘が、わたくしの夫のような男性とめぐりあい、結婚することを心から望んでおります。本間雅晴とはそのような人でございます。」と。

本間は日記に、この日の感動を記した。

「この言葉は満廷を感動せしめ何人の証言よりも強かつた。(略)日本婦人と云うものを知らぬ米人並比人に日本婦道をはつきり知らしめた英雄的言動であつた。私は是だけでも非常に嬉しく思ふ。日本婦人史に特筆すべき事蹟と思ふ。」







日中の和解の為に身を捧げる

我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです (『世紀の遺書』向井敏明「辞世」より)

 東京裁判では、昭和十二年の南京攻略時の上海派遣軍司令官であった松井石根大将を「南京大虐殺」の罪状で処刑したが、現地に於ても「生贄」が求められ、第六師団長だった谷寿夫中将を責任者として銃殺し、更には「三百人斬」で田中軍吉陸軍大尉、「百人斬」競争を行ったとして、向井敏明少尉、野田毅少尉が処刑された。「南京大虐殺」自体が虚構に過ぎないのだが、第六師団に限っても、攻撃部隊であり、南京には一週間しか滞在せず直ぐに撫湖に転進している。虐殺している余裕等ない。更には、三百人斬や百人斬りなど日本刀では絶対にありえない。それでも、強引にこじつけて罪人=生贄を生み出し、銃殺したのである。

 向井は遺書の中で「努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る人は無い様です。恐ろしい国です。」と記している。

向井は堂々たる辞世を残している。

「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せること全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
 中国の御奮闘を祈る
 日本の敢奮を祈る
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井敏明 」

戦犯裁判で裁かれた者達は、今行われている事が、「裁判」の名を借りた復讐劇・私刑(リンチ)である事を重々承知していた。彼らは軍人=武人だった。出征の時から死を覚悟し、国の為に働き、生きては帰らぬと心に定めていた。

それ故、「戦犯」としての死も、「敗戦という大変事による冷酷な運命」(三浦光義海軍上等兵曹)「職務上の玉砕」(野澤藤一陸軍曹長)「唯笑って国に殉じます。すべては敗戦の生んだ悲劇」(中野忠二海軍兵曹)と諦観した。只唯一の心残りは自らの名誉と死の意味だった。

軍属の浅井健一は「私は日本の建設の礎となって喜んで行きます。戦犯者となるも決して破廉恥とか私事で刑を受けたのではないことを記憶して下さい」と記しているが、多くの遺書にも同様の言葉を見出す。







成仏はせぬ。供養は一切不要。

断ジテ成佛ハセズ。故ニ一切ノ追善供養ハ何卒何卒無用ニ願上候  (『戦犯裁判の実相』篠原多磨夫訣別の辞「舌代」)

 各国での裁判が終結した後、巣鴨には各地で服役中の「戦犯」達が送られて来た。更に、朝鮮戦争の勃発により、巣鴨の米軍看守は出征し、日本人看守に代り、管理体制が緩和される。講和条約調印後の昭和二十七年三月一日、戦犯在所者が連絡団結し、戦犯釈放運動促進の為の『巣鴨法務委員会』が服役者の自治会という形で発足。一年二か月と十二日かけて、服役者全員から各地での裁判の様子を聞き取り、その実相を大冊『戦犯裁判の実相』として纏め上げ出版した。後に、昭和五十六年と平成八年に復刻されている。

 復刻版のただ一枚のグラビアには、受刑者たちの無念を象徴するかの如く、豪軍法廷マヌス軍事法廷で絞首刑にされた元海軍大佐(徳島県出身)の篠原多磨夫の訣別の辞「舌代」の写真が掲載されている。篠原は叫ぶ。「拙者儀未熟者ニテ死亡後怨霊トナリ大日本国ニ留ル所存ナルヲ以テ断ジテ成佛ハセズ。故ニ一切ノ追善供養ハ何卒何卒無用ニ願上候」と。篠原の怒りは受刑者全員の怒りでもあった。『戦犯裁判の実相』に掲載されている、裁判の記録並びに各地の収容所での日本兵虐待の記録は、凄まじいものである。

「収容所全員も約三ヵ月の間、毎日灼熱の石の上に坐らされ特に夜間八時頃より十二時迄は殴打激しく毎夜一、二名必ず人事不省になる事あり。」(クーパン・寺尾勇太郎証言)

「マカッサルに連行された時には定った様に二、三時間天皇拝み(不動の姿勢にて太陽を直視すること)をやらされる。勿論南方の太陽を五分も直視出来るものではない。目を脱して居ると時々彼らは廻って来て殴るのである。」(マカッサル・妹尾繁市証言)
「訓練と称して素足のまま硝子の破片、ブリキの破片を捨てた穴の中を行進せしめ、足を切るのを眺めては快哉を叫んでいた。灼けつく炎天下のコンクリートの上を、素足で駈足させ、昨日は十名、今日は十五名と卒倒する者の数を読んだ。」(英領地区証言)

独房に毎晩毎晩酔った兵隊が殴り込みをかけて弄び、片目を失い耳も聞こえなくなり松葉杖をついて断頭台に上る者も居た。当然、自殺した者、暴行死させられた者が多数に及んでいる。この様な生き地獄を体験させられた者達の怨みは消える事は無い。その恨みを胸奥に潜めて戦犯達は死出の旅路に着いたのである。その事も決して忘れてはならない。

「武士道の言葉」最終回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その2

$
0
0
「武士道の言葉」最終回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その2 (『祖国と青年』28年3月号掲載)

戦犯受刑者の全面赦免は国民の悲願

国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたい (衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」昭和二十八年八月三日)

 戦後の日本にとって、敵国に裁かれた「戦犯」受刑者の解放は国民的な悲願であった。占領下にあっても広田弘毅元首相の減刑嘆願署名が七万名以上集まる等、個別的な救済活動は行われていたが、昭和二十七年四月二十八日の主権回復と同時に、奔流の様な勢いで、戦犯受刑者赦免の運動が広がって行く。

先ず、口火を切ったのは日本弁護士連合会で、同年六月七日「平和条約第十一条による戦犯の赦免勧告に関する意見書」を日本政府に提出、これが契機となって戦犯釈放運動は全国で燃えあがり、約4000万人の署名(共同通信の小沢武二記者によれば、地方自治体によるもの約2000万、各種団体によるもの約2000万という)が集まった。当時の人口は8500万人位だから、成人の大半が署名した事になる。
 それを受けて政府は同年十月十一日、国内外に抑留されているすべての日本人戦犯の赦免減刑を、関係各国に要請した。

 国会でも答弁が行われ、「戦争犯罪なるものは(略)国内法におきましては、飽くまで犯罪者ではない、従いて国内法の適用におきまして、これを犯罪者と扱うということは、如何なる意味においても適当でない」(国務大臣大橋武夫氏)「戦犯者は戦争に際して国策に従って行動して国に忠誠を尽し、たまたま執行しました公務のある事項が、不幸にして敵の手によってまたは処置によって生命を奪われた方々であります」(青柳一郎代議士)「その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。」(社会党・堤ツルヨ代議士)と、全てが「戦犯」及びその遺族に同情的な意見だった。

国会は、昭和二十七年十二月九日と、翌年八月三日の二度に亘り、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を、与野党を越えた圧倒的多数で可決した。日本からは「戦犯」は居なくなったのである。






モンテンルパ刑務所受刑者の救出を!

比島のキリスト教の牧師と、力を合せて宗教家としての助命減刑につくせ  (高松宮殿下の激励の御言葉『モンテンルパに祈る』より)

 東京裁判が終了したのが昭和二十三年十一月、他地域のBC級戦犯裁判も昭和二十六年迄には次々と終結した。多くの受刑者は巣鴨へと送られたが、フィリッピンのモンテンルパ刑務所には多くの日本人が取り残されていた。死刑囚が59人、無期刑囚が29人、有期刑囚20人が収監されていた。昭和二十八年七月二十七日、比国キリノ大統領は全員に特赦又は減刑を与え、日本への送還を許可した。(小林弘忠『天に問う手紙』)。

 ここに至るには長い道のりがあった。モンテンルパに収監されている同胞達を救えとの全国民的な運動が巻き起こり、それがフィリッピン政府に強い要望として届けられたのである。その国民運動の中心に居たのが、復員局で昭和二十二年からフィリッピン裁判担当の任に当っていた植木信吉と、二十四年九月一日からフィリッピン戦争裁判教誨師を委嘱され現地に派遣された岡山県の真言宗僧侶・加賀尾秀忍だった。植木は二十三年秋の検察庁への転出辞令を断って、救出運動に全力を傾注した。加賀尾も当初六カ月の委嘱だったが、自らの意志で現地に留まり最後迄解放の為に尽力している。

 植木の努力で囚人達の家族会が結成され、会誌『問天』が発行される。それが情報発信源となって国民各層に広がり、現地への慰問品や活動支援金が次々と寄せられる様になる。一方、加賀尾は現地での不自由な生活を余儀なくされながらも、日々祈りつつ様々な人々に救出の嘆願書を送り続けた。更には、加賀尾を通して囚人達の声も日本に届き『問天』で紹介された。遂にはマスコミも大々的に取り上げ、現地には国会議員も慰問に訪れ要路に働きかける様になる。囚人達の作詩・作曲の歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌手の渡辺はま子が唄い爆発的なヒットとなる。七年間の弛まぬ努力と国民の熱誠が救出を齎したのだった。

 加賀尾が著した『モンテンルパに祈る』には、現地赴任前に高松宮殿下を訪れ嘆願書の署名を戴いた際に、殿下が「安心して、瞑目せしめるだけではいかぬ。比島のキリスト教の牧師と、力を合せて宗教家としての助命減刑につくせ」と述べて激励された事が紹介されている。加賀尾はその御期待に見事答えた。高松宮殿下も吉田首相に直接嘆願書を送られる等尽力されている。







ソ連抑留十一年四ヶ月の中で刻んだ祖国再建への言霊

書く文字の一字一字を弾丸として皇国に盡す誠ささげむ (伊東六十次郎『シベリヤより祖國への書』)

 昭和二十年八月九日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満身創痍の日本に対して宣戦を布告し、満州・樺太・千島列島に怒涛の如く進撃した。スターリンは北海道分割を米国に提案したが、断られた。そこで、北方領土を軍事占領し、かつ満州等で武装解除した日本軍将兵をシベリアへ強制連行した。その数は約70万名に及び、約10万が亡くなった(長勢了治『シベリア抑留全史』)。

 昭和四年に東京帝大(西洋史専攻)を卒業して満州に渡り、自治指導部の創設に参画し、満州国建国後は大同学院教授となり協和会中央本部で復興アジア運動の思想的・基礎的研究に精魂を傾けた人物に伊東六十次郎が居る。伊東は、満州国崩壊後シベリアに抑留され、その抑留期間は十一年四ヶ月に及んだ。ソ連のスターリン主義を批判し、己が所信を曲げず、圧力に屈しなかったが為に、要注意人物としてマークされ、強制労働二十五年を科せられた。

 この間伊東は、戦友中の同憂の士と共に、祖国の再建と民族の復興を祈念して「日本敗戦の原因に対する基本考察」と「日本民族建設の具体的要綱」について討議研究して文章化した。伊東は記す。「昭和二十年八月二十四日に、桓仁警備の陣中に於て「日本民族建設の具体的要綱」の覚書の記録を中隊長から委嘱されて以来、終始、本書の記録の責任に当ったのが筆者である。然しながら捕虜生活の極めて困難な条件の下に於て、筆者に執筆の時間と場所とを与へて呉れたのが戦友であり、また筆者に捕虜生活の初期に於ては、凡そ想像以上の貴重品であつた紙、ノート、鉛筆、インク、ペン先等を提供し、机等を作つて呉れた戦友も多かつた。更に各捕虜収容所に於ては戦友は苛酷な強制労働のために疲れて居るにも拘はらず、本書の原稿を検討研究して、辞句や内容の修正をして呉れたのである。」と。正に祖国を思う同志達の総合力でこの著作は完成している。

 だが、草稿はソ連当局によって八回も没収され、九回目の草稿が、訪ソして慰問に来た参議院議員戸叶里子氏のハンドバッグの中に隠されて奇跡的に日本に届けられたのだった(『満州問題の歴史』解説)。それを元に、帰国半年後に『シベリヤより祖國への書』が出版された。正に命懸けの執筆であり、書く文字の一字一字を弾丸として祖国に誠を捧げたのである。文章を書く者として粛然と襟を正される「留魂の書」である。






 
日本人の誇りを持って逆境に立ち向かったある一等兵の信念の言葉

でも、私たちは負けない。なぜか?それはわれわれは捕虜ではなく、日本人だからだ。 (村中一等兵の言葉『現代の賢者たち』より)

 極寒の地で満足な食糧も与えられず、苛酷な労働が抑留者を苦しめた。だが、その様な中でも日本人としての誇りを失わず毅然と生き抜いた人々が居た。『現代の賢者たち』(致知出版社)に、BF六甲山麓研修所所長の志水陽洸氏の「酷寒のシベリアで私の人生は開かれた」と題する体験談が掲載されている。

志水氏等はシベリア収容所の暗黒の生き地獄の中で無気力になり、如何に監視の目を逃れてさぼるか計りを考えて日々過していた時、異質の集団と出会う。彼らはとてもひどい身なりをしていたが、真剣そのものに労働して志水氏達の数倍の仕事をこなしていた。そこで、志水氏は、彼らは敵の回し者に違いないと勘違いして抗議する。その時その集団のリーダーだったのが三五、六歳の村中一等兵だった。村中一等兵はひと通り志水氏の話を聞くと、その輝く様な鋭い目でみつめながら次の様に語った。

「あなた方は逆立ちの人生を送っている。一番大事な芯が抜けてしまっている。それでは栄養失調になったり、餓死するのも当たり前だ。私を見なさい。私の目や筋肉は、失礼だがあなた方とは違って、生き生きしていますよ。国境でソ連と戦闘して、敵を殺したためにわれわれは最悪の作業場を回されている。食事も待遇も、あなた方より悪い……でも、私たちは負けない。なぜか?それはわれわれは捕虜ではなく、日本人だからだ。どうです。あなた方も、もういい加減に捕虜を卒業したら。心までが何で捕虜にならなければいかんのです?」「現在の苦しい作業や悪条件は天が与えてくれた試練です。(略)人間が成長するために苦があるということは、これは生命の本源です。(略)私たちが負けていないのは、捕虜ではない、日本人なのだという自覚に燃えているからです。」と。

捕虜にありながら捕虜でない、誇り高き日本人の持つ信念の言葉だった。

福島茂徳『凍土に呻く シベリア抑留歌集』には、次の歌が紹介されている。毅然たる魂もたざれば死神がたちまちとりつく虜囚の生活

 私は平成十九年春に中央アジアのウズベキスタンを訪れて抑留で亡くなった方々の慰霊を行った。そこでは、日本人抑留者達が築いたナヴォイ劇場や水力発電所が今でも使われて居た。生真面目に働いた日本人抑留者の姿に現地の人々は感動し、今尚その事が語り継がれていた。

★この連載は今月号で終了いたします。ご愛読有り難うございました。尚、五月末に明成社から『永遠の武士道 語り伝えたい日本人の生き方』と題して出版される予定です。

愈々5月中旬に出版『永遠の武士道』

$
0
0
本ブログでも紹介した「武士道の言葉」が単行本になります。

大幅に加筆した内容となります。

明成社から5月25日刊行です。

定価は1800円(税抜)です。10冊以上購入は割引もありますので明成社に直接申し込みください。

武士道の言葉 その36 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その2

$
0
0
「武士道の言葉」第三十六回 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その2(『祖国と青年』27年7月号掲載)

祖国の青年達への願い

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き乙女達よ、清く美しく健康であれ。 (グアム島・海軍軍属石田政夫遺書)

 玉砕した戦士達の祖国に対する願いを記したものとして、グアム島で厚生省調査団により発見された日記に綴られた言葉ほど胸を打つ物はないであろう。日記を記していたのは、海軍軍属の石田政夫氏、当時三十七歳である。石田氏は昭和十九年八月八日、グアム島にて戦死した。

 日記には、息子に対する思いが綴られ、更には、自らの生命を捧げる祖国日本の若き男女への祈りが刻まれていた。

「昨夜子供の夢を見ていた。父として匠に何をしてきたか。このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。強く生きてほしい。そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。

三月○日
内地の様子が知りたい。聞きたい。毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟してきている。万策つきれば、いさぎよく死なう。
本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむことが出来れば、 母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き乙女達よ、清く美しく健康であれ。」

 翻って今日の若人の姿を思い浮かべる時、彼らが生命を捧げて守らんとした祖国日本の青年達は祈りに応えているだろうか。「強さ」「逞しさ」「朗らかさ」や「清らかさ」「美しさ」は民族の誇りの自覚の上に培われる。自虐・反日を青少年の心の中に瀰漫させた戦後教育、その根源に位置する敗戦丸出し憲法の解体なくして日本人の精神の再建は展望されない。





平常心

敵の空襲も最近多少増加仕り候えども大した事なく候 (中川州男陸軍大佐・妻宛最後の書簡)

 終戦七十年に当り、天皇皇后両陛下はパラオに行幸され、ペリリュー島を慰霊巡拝された。本当に有り難い事である。ペリリュー島の戦いは、大東亜戦史に残る激戦だった。南北9キロ東西3キロ 20平方キロメートルしかない島を昭和19年9月15日の米軍侵攻から11月27日まで何と、73日間も守り抜いたのだ。守備隊長は中川州男陸軍大佐である。

中川大佐は、熊本県玉名市の出身であり、旧制玉名中学校(現・玉名高校)から陸軍士官学校に進学している。その玉名中の同窓生達(その中の一人が日本会議熊本の花吉副会長)が、中川大佐の顕彰を行なうべき事を話し合い、平成二十二年七月三十一日に熊本日日新聞社から『愛の手紙 ペリリュー島玉砕中川州男大佐の生涯』が出版された。執筆は升本喜年氏が担当された。中川大佐は筆まめな人で、光江夫人宛に近況を知らせる手紙を幾通も出され、それを夫人が保存されており、それらがこの本の中で紹介されている。

その手紙(私信)の最期となったものが、昭和十九年七月三十一日にペリリュー島から出されたものである。全文を引用する。

「拝復 六月二十二日付手紙落手仕り候

無事熊本の緒方様宅で御暮らしの由 何よりと存じ候 当方その後元気にて第一線勤務に従事 将兵一同愉快に不自由なく暮らし居り候故 御放念被下度候 敵の空襲も最近多少増加仕り候えども大した事なく候 

近々状況も切迫致し候 手紙も船の運航のため余りつかないようになるとも 決して御心配なく御暮し願上げ候 丁度 東京行きの幸便有之候故 御たのみ致し候 各位にもその後失礼致し候。よろしく御伝え願い上げ候 

高瀬も緒方様も道之様にも御元気の事と存じ候 よろしく御願い上げ候 先ずは要用のみ取り急ぎ早々 祈御健康

七月三十一日       中川州男

 光枝殿             」

 中川夫妻には子供が無かった。感情を抑制しつつも、妻を心配させまいとする大佐の心遣いが窺われる手紙である。実は、この時期、連日の様に米軍機による空爆が繰り返され、その合間を縫って島内の縦深陣地構築に全力を投入し、大佐はその先頭に立たれていたのである。それでも「大した事なく候」と記される如く、平常心そのままであった。





一人十殺

我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ(硫黄島守備隊「敢闘ノ誓」)

 かつて私が大学生の研鑚合宿を企画運営していた頃、夏になると、自らも学徒兵として満ソ国境で戦った体験を持たれるノンフィクション作家の南雅也先生をお招きしていた。ある年、南先生は参加者に一枚の紙を配られた。先生の義兄で硫黄島協会事務局長が、遺骨収集時に御遺骨の横で発見したガリ版刷りのコピー、それが「敢闘ノ誓」だった。

 硫黄島もペリリュー島と同様、南北8、3キロ・東西4、5キロ~0、8キロ、22平方キロメートルしかない島である。昭和20年2月19日~3月26日まで36日の激戦が繰り返され、日本軍の戦死者は2万を超え、戦死・戦傷者総数は2万1152人、一方攻撃を仕掛けた米軍も戦死・戦傷者を合わせると2万8686人となり、米軍の損害の方が日本軍を上回ったのだ。この「激戦」の事実こそが、後に米軍をして本土決戦を躊躇させる大きな力となったのである。

 その硫黄島将兵の魂の凝縮ともいえる言葉が「敢闘ノ誓」の中に刻まれている。勿論、それを考案したのは、硫黄島守備兵団の総司令官である小笠原兵団長・栗林忠道中将である。そして、この敢闘ノ誓が硫黄島守備隊将兵の「魂」となって実践されたのだった。

「一、我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン 

 一、我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン 

 一、我等ハ挺身敵中二斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン 

 一、我等ハ一発必中ノ射撃二依ツテ敵ヲ打扑サン

 一、我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ 

 一、我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」二依ツテ敵ヲ悩サン」

 米国側が書いた硫黄島戦記には、日本兵の射撃の見事さが米軍を恐怖に陥れた様が記されてる。硫黄島の地下に張り巡らされた坑道を利用して、日本兵はあたかも忍者の様に神出鬼没して米兵を一発で斃したと言う。

この誓の中の「我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」の決意は私には良く解る。かつて私が学生運動に起ち上がった頃の大学では、左翼暴力集団が鉄パイプを振るって思想信条の違う者を排除するという「暴力」が横行していた。その中で天皇の御製や大御心を語り、大東亜戦争の意義を発言するには覚悟が必要だった。もし自らが殺される時には敵を二人以上は必ず斃してしか死ねない(祖国日本を少しでも良くする)との決意を抱いて学園に立っていたのである。
 





武士道に降伏なし

御奨めによる降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。 (浅田眞二陸軍中尉・米軍司令官宛遺書)

 硫黄島の組織的な戦闘は、三月二十六日に終了したが、その後も「敢闘ノ誓」の如く、ゲリラ戦が展開されていた。戦闘に於ける日本軍捕虜は極めて少数で、その殆どは重傷を負って意識不明の状態で収容された者達であった。日本人の戦死率は約96%に達している。米軍は火焔放射器で攻撃したり、坑道入口をコンクリートで固めて生き埋めにするなどして残存日本軍ゲリラを追いつめて行った。それでも、終戦後まで地下洞窟に立て籠もって戦い抜いた強者も居た。

 五月中旬になって摺鉢山地下壕入口の木に挿まれていた手紙が米軍に発見された。それは、混成第二旅団工兵隊第二中隊小隊長 浅田眞二中尉が米軍司令官スプルアンス提督に宛てた手紙だった。浅田中尉は摺鉢山地区隊で戦闘中に米軍戦車の射撃を受けて重傷を負い、地下壕にとり残されて生き長らえていたのだった。だが、最期の時を迎え、日本人の意気を敵将に示して従容として散って行ったのだった。浅田中尉は東京帝国大学出身の出陣学徒将校だった。

「閣下のわたし等に対する御親切なる御厚意誠に感謝感激に堪へません。閣下よりいただきました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。

 御奨めによる降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。もはや水もなく食もなければ十三日午前四時を期して全員自決して天国に参ります。

 終りに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。

昭和二十年五月十三日

                                                       日本陸軍中尉  浅田 眞二
米軍司令官 スプルアンス大将殿  」

 硫黄島守備兵団の栗林中将は文才豊かな将軍だった。陸軍省兵務局馬政課長時代には「愛馬進軍歌」を生み出し、硫黄島では、先述の「敢闘ノ誓」「日本精神五誓(硫黄島部隊誓訓)」を記して将兵の精神を一つにしている。その意味では、硫黄島の激戦は「言葉」が血肉化し「魂」となって、敵を圧倒したと言えよう。そして浅田中尉も、ユーモア溢れかつ決然たる「言葉」を残して天国に旅立った。彼らは、祖国日本を守り抜く為に、死地にあって自らの生命を燃やし尽くした。

戦後日本は、占領軍によって支配された言語空間の中で、祖国を守る決意の言葉を喪失せしめられ、未だにそれから脱却し得ていない。安保法制の正常化・適正化、更には憲法改正によって日本人の言葉に生命力を甦らせねばならない。

武士道の言葉 その37 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その3

$
0
0
「武士道の言葉」第三十七回 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その3(『祖国と青年』27年8月号掲載)

硫黄島の壕内から米国大統領を叱責
外形的ニハ退嬰ノ已ムナキニ至レルモ精神的ニハ弥豊富ニシテ心地益明朗ヲ覚エ歓喜ヲ禁ズル能ハザルモノアリ。 (市丸利之助海軍少将「ルーズベルトニ与フル書」)

 硫黄島守備隊・海軍指揮官の市丸利之助少将は激戦の最中に壕内で米国大統領宛の手紙を記し、英文に直したものを米側に届けんとした。幸い、米兵の見つける所となり司令部に届けられて、米国側を非常に驚かせた。内容が理路整然として、米側の反省を求めるものであり、米軍は報道管制を敷いて、暫くは報道させなかったが、後に「米国大統領叱責される」とマスコミで紹介された。

 この手紙は、「日本海軍市丸海軍少将書ヲ『フランクリン ルーズベルト』君ニ致ス。我今我ガ戦ヒヲ終ルニ当リ一言貴下ニ告グル所アラントス」から始まり、
大東亜戦争に至る経過を述べ、米国が日本を好戦国と称するのは「思ハザルノ甚キモノト言ハザルベカラズ」と断じて、日本天皇の平和を希求される御心を示し、日本の戦争目的は平和の希求であり、今外形的には劣勢であっても日本人の信念は微動だにしない事を述べている。

その理由として、白人のアジア侵略の経緯を記し、それに抗してわが国が東洋民族の解放を志して来た事を米国が悪意を持って妨害し日本を追い込んで来た経過を述べ、「卿等何スレゾ斯クノ如ク貪欲ニシテ且ツ狭量ナル。」と糾弾して反省を求め、大東亜共栄圏が世界平和と共存できる事を訴えた。更には欧州情勢に触れ、ヒットラーを倒した後、スターリンのソ連と共存できるのかと疑問を投げかけ、日本を叩き潰し世界制覇を成し遂げんとしているが、かつてウイルソン大統領が得意の絶頂に失脚した事を挙げ、「其ノ轍ヲ踏ム勿レ」と警鐘を鳴らして終わっている。

 史実に立脚した堂々たる文章である。それが、硫黄島の激戦下、地下壕の中で草された事に深い感動を覚える。正に大東亜戦争の大義であり、大義に対する市丸少将の確固不動の確信が伺われる。

武士道にとって最も大事なのは「大義」に他ならない。それを言葉に刻み永遠に残した市丸少将に心から感謝したい。





物資弾薬窮乏の中、来援機の安全を心配した仁将
わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。 (拉孟守備隊長金光恵次郎少佐打電)

 玉砕の戦場は、太平洋の島々だけでは無かった。ビルマ(ミャンマー)と支那との国境地帯にある拉孟・騰越の守備隊は、少数の兵力で守備地域=砦を死守すべく激烈に戦い抜いて玉砕している。

拉孟守備隊は1280人、それに対して押し寄せる中国の雲南遠征軍は4万8500人。拉孟守備隊の隊長は野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵次郎砲兵少佐だった。戦闘が行われたのは昭和19年の5月から9月である。当時インパール作戦が展開されており、その進撃ルートの北、要衝の地に拉孟・騰越は位置していた。拉孟・騰越の敗北は、インパール作戦の退路遮断を意味していた。

 拉孟北方での戦闘が開始されたのが5月11日、拉孟に対する雲南軍の第一次総攻撃は6月2日~7日、雲南軍7千を壊滅し、師長を戦死させた。更に6月14日から21日の戦いでも、甚大な被害を与えた。雲南軍は最精鋭の栄誉第1師(兵力8千・山砲6門・迫撃砲64門)を投入して包囲する。

友軍機による弾薬補給に対し、守備隊は「今日も空投を感謝す、手榴弾約百発、小銃弾約2千発受領す、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり」と打電している。7月4日~14日に雲南軍第二次攻撃、ロケット砲を始めとする新兵器も使って猛攻撃をかけるが陣地の一箇所も抜けず、損害は第一次にも増した。守備隊は、「今までの戦死二百五十名、負傷四百五十名、但し、うち休息百名を含む。片手、片足、片眼の将兵は皆第一線にありて戦闘中、士気きわめて旺盛につき御安心を乞う」状態だった。

7月20日より雲南軍第3次攻撃。7月下旬には、守備隊は重軽傷者も含め三百数十名となる。8月12日、拉孟守備隊に対し、制空権を奪われながらも弾薬補給を行わんと友軍の飛行隊が危険を冒して来援した。

その時、金光守備隊長は司令部宛に「わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。」と打電した。守備隊にとって弾薬はのどから手が出るほど欲しいものである。しかし、自分達の為に友軍機を危険に晒してはならないとの「仁愛」の情が金光隊長をして打電させたのだ。

8月23日の打電には「其の守兵片手片足の者大部」とある。それでも守備隊は9月7日まで戦い抜き持ちこたえた。







窮地にあっても他者に迷惑をかけず
ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス(騰越守備隊太田正人大尉訣別電報)

 騰越の守備隊は、2025人(隊長 蔵重康美大佐)、押し寄せる中国雲南軍は6個軍17個師団からなる7万2000人であり、実に36倍の敵だった。

19年6月27日に雲南軍は総攻撃を開始する。8月13日には、敵爆撃機の爆弾が司令部壕を直撃し、蔵重連隊長以下32人が戦死した為太田正人大尉が指揮をとった。

8月14日、雲南軍第二次総攻撃。太田大尉は敵の二個師団を相手に孤軍奮闘、更には「全員志気旺盛ナルニツキゴ安心アリタシ、ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス」と打電している。自らに与えられた任務を精一杯果たし、他に迷惑を及ぼさないという高潔なる責任感が横溢していた。

8月19日、雲南軍第三次総攻撃。それでも持ちこたえた。だが、守備隊には五体満足な者は少なく、負傷者も含めても六百名程度まで減少していた。

9月5日、雲南軍第四次総攻撃、そして、12日太田大尉は「現状よりするに、一週間以内の持久は困難なるを以て、兵団の状況に依りては、13日、連隊長の命日を期し、最後の突撃を敢行し、怒江作戦以来の鬱憤を晴らし、武人の最後を飾らんとす。敵砲火の絶対火制下にありて、敵の傍若無人を甘受するに忍びず、将兵の心情を、諒とせられたし」と訣別電報を発し、翌日騰越守備隊は玉砕した。

 雲南地方の日本軍を完全制圧した後、支那軍の蒋介石総統は第二十集団軍司令官霍中将に対し次の特別訓示を行った。

「戦局の全般は、わが軍に有利に展開し、勝利の曙光ありといえども、その前途いまだに遠く、多事多難なるものあり。今次日本軍の湖南省における攻撃作戦及び北ビルマ、怒江方面に対するわが軍の攻勢作戦の戦績をみるに、わが中国軍にしてきわめて遺憾にたえざるものあり。わが軍将校以下は、日本軍拉孟守備隊、あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘、最後の一兵にいたるまで、命令を全うしある現状を範とすべし」

 又、拉孟の戦闘終結後、雲南軍司令官李密少将は「私は軍人として、この得がたい相手と戦い得たということを誇りにも思い、武人として幸せであったと思う。」「かれらは精魂をつくして戦った。美しい魂だけで、ここを百二十余日も支えた。」と述べ、戦った日本人たちを丁重に葬ることを指揮下の将兵に命じた。


  




子孫に残した「清節」の生き様
我家において、皆に残し得る財産があるとしたら唯一、「清節を持す」ということだけであろう。(第十八軍司令官安達二十三中将子供宛遺書)

 玉砕戦を行うには至らなかったが、ニューギニア戦線の日本軍将兵も大変な辛酸を体験し、十四万人居た将兵の中で、二年九ヵ月の激戦を経て、祖国に戻る事が出来たのは一万人足らずだった。ニューギニアは日本の二倍の面積がある。補給が途絶する中飢えと疫病に苦しまされつつも能く士気を維持し戦闘を持続し得たのは、第十八軍司令官の安達二十三中将の人格と指揮に由来する。

 作戦の為、ジャングルの中を4500メートル級の山脈を越えて転進して来た将兵を安達中将は涙を流しながら自ら手を取って迎えたという。

安達中将の統率は、①純正鞏固な統率 ②鉄石の団結 ③至厳の軍紀 ④旺盛な攻撃精神 ⑤実情に即応する施策、という特徴があったと当時の参謀が述べている。

安達中将は現場の実情を重視し、直に将兵と触れ合っていた。部下が飢えや病気で次々と亡くなっていく姿は将軍の胸を痛め、いつしか将軍は「当時私は陣没するに到らず、縦令凱旋に直面するも必ず十万の将兵と共に南海の土となり、再び祖国の土を踏まざることに心を決した」(第十八軍将兵(光部隊残留)宛の遺書)のだった。

 終戦後、安達中将は戦犯としてラバウル裁判所に送られた。安達中将は総て自分の責任であると、起訴された部下の助命に尽力する。刑は無期禁錮となるが、昭和二十二年九月十日、ナイフで割腹して自決した。遺書には、「唯々純一無雑に陣歿、殉国、竝に光部隊残留部下将兵に対する信と愛に殉ぜんとするに外ならず」とその理由を記している。

子供達(一男二女)に当てた遺書には「今後は何時でも自ら職場に立って生き、自ら自分の進路を開拓して行く覚悟と腹をきめねばならぬ。(略)この腹さえしっかり定まれば、今後起る困難に際しても、動揺しなくなる。」「天は自ら助くる者を助く」「困難に対して受身にならず、進んでそれを打開することと、三人が互に励まし、互に慰め合って行くこと」「日本の国民として恥づかしからぬ人となること」を述べ、自らは、軍人としての節義の一点を守って来た事。「我家において、皆に残し得る財産があるとしたら唯一、『清節を持す』ということだけであろう。」と書き残している。

清節を貫き、部下に対する信と愛を貫いて現地に骨を埋めた高潔なる将軍が居た事を、私達は決して忘れてはならない。

武士道の言葉 その38 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」 その1 

$
0
0
「武士道の言葉」第38回 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その1 (『祖国と青年』27年9月号掲載)

男の崇高な美学

いさぎよく敵艦に体当たりした特別攻撃隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。(アンドレ―・マルロー)

 昭和四十九年夏、元リヨン大学客員教授で特別操縦見習士官三期出身の長塚隆二氏は、フランス文化相を務めた作家のアンドレ・マルロー氏を訪問、マルロー氏は特攻隊について次の様に語られたと言う。

「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。ス夕―リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別攻撃隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。」

「フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別攻撃隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。

私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別攻撃隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである。」

 自虐史観に侵された日本人より、仏人の方が特攻隊の本質を言い当てている。特攻隊を志願した多くの青年達、彼らの真情は、残された膨大な手紙や日記や遺書を繙けば自ずと伝わって来る。そして、この様な潔い青年達が、七十年前の日本には多数居た事に改めて感慨を深くする。






自己犠牲

セルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の非常な特長である。(三島由紀夫「武士道と軍国主義」)

 昭和十四年生れの三島由紀夫氏は特攻隊に散った青年達と同世代だった。三島氏は生前、江田島の教育参考館を訪れ、特攻隊員の遺書の前で釘付けになり涙を流されていたと言う(岡村清三氏の話)。

 三島氏は昭和四十一年一月に書いた「日本人の誇り」の中で、「私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。すべて日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。」と記している。

更には、昭和四十五年に語った「武士道と軍国主義」の中で、「セルフ・リスペクト(自尊心)と、セルフ・サクリファイス(自己犠牲)ということが、そしてもう一つ、セルフ・リスポンシビリティー(責任感)、この三つが結びついたものが武士道である。」と述べ、「セルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の非常な特長である。」と話している。

 自尊心・責任感、そして自己犠牲、特に自己犠牲こそが武士道の武士道たる所以であり、三島氏はその最たるものを特攻隊の青年達に見出していた。

 三島由紀夫氏と親交のあったアイヴァン・モリス氏は『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』を著し、特攻隊の自己犠牲の行為を、日本の精神史の中で位置づけた。この本では、日本武尊・捕鳥部万・有馬皇子・菅原道真・源義経・楠木正成・天草四郎・大塩平八郎・西郷隆盛を扱い、最後を「カミカゼ特攻の戦士たち」で締めている。モリスは言う「特別攻撃隊員たちの場合、背後には武士の伝統がある。また日本という国のため生命を捨てた英雄精神がある。」と。

 戦後教育は、生命尊重=自己保全のみを教え、自己犠牲を忌み嫌い、対極にある特攻隊を誹謗し、貶めて来た。だが、国家社会にとって、共同体の為の自己犠牲の精神は崇高な事であり、かつ不可欠なのだ、眼に見えぬ自己犠牲によって社会は支えられているのだ。今日、東日本大震災等の体験によって漸く、真実を直視する眼が養われつつある。






志願から始まった特攻

戦隊長、敵空母群を特攻しましょう。(比島・飛行第三一戦隊「戦闘会議」)

 終戦七十年の今年、母校の済々黌同窓会でも同窓英霊顕彰祭が行われた。多士会館(同窓会館)には十年前に慰霊碑が建立され、その際に同窓十七柱の英霊に関する資料が小冊子にして配られており、その中に特攻ゼロ号の話がある。

 特攻隊の編成と出撃は昭和十九年十月二十日となっている。ところが、その一か月前の九月十三日早朝、小佐井武士陸軍中尉(済々黌昭和十四年卒)と山下軍曹の隼二機は、百瓩爆弾を装着して、レイテ東方の敵機動部隊空母に向けて特攻攻撃を行っている。事情はこうである。

 小佐井中尉は昭和十九年六月に中部比島ネグロス島の東北端のフアブリカ基地に展開、飛行第一中隊の第二小隊長を務め、隼戦闘機が愛機だった。九月十二日に、敵機動部隊のネグロス島攻撃が予想され、哨戒中に攻撃から帰還中の敵グラマン6F四十機、ノースアメリカ七十機と遭遇、中隊は敵十七機を撃墜した。

その日の夜、朝の戦闘体験から戦闘会議を飛行隊員全員で開いて議論した。その結果「敵のグラマン6Fは最高速度や旋回性能は隼と大差ないが、巡航速度から最高速度になる時間と上昇力には格段の差がある。敵機は二〇ミリ機関砲四門・十三ミリ機関砲四門に対し我が機は十三ミリ二門のみ。敵機の操縦席は厚い鋼板で囲まれ、タンクには厚い防弾装置があり中々撃墜できない。これらの現実と本日の戦闘体験により、敵との正面真面目の空中戦は、機数・性能・装備そのいずれの見地からも勝つ事は不可能と思われる。尚、軍司令部偵察機の報告によれば敵機動部隊は夜間黎明には哨戒護衛飛行は行っていない。」

そこで、結論として全員異口同音に「戦隊長、敵空母群を特攻しましょう。我々はもともと軽爆隊から襲撃隊となり戦闘隊となったのですから、超低空や急降下爆撃には習熟しています。この基地で戦っても全滅するのみです。また退避しても五十歩百歩です。それならむしろ我々は日本の国民に対して、愛機の戦闘機に爆弾をつけて体当たりしても戦っている姿を見せるのが、我々の任務でしょう」と述べた。

西戦隊長が特攻志願を募ると全員参加を希望。そこで師団司令部に電話で許可を求めるが許可が降りない。二時間に亘る声涙降る懇願の結果、マニラ湾で超低空艦船攻撃訓練を受けた小佐井中尉と山下軍曹二名のみ特攻の許可が降り、早朝五時に二機が出撃したのだった。






特攻の歴史の記憶が日本を甦らせる

後世において、われわれの子孫が、祖先はいかに戦ったか、その歴史を記憶するかぎり、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。(大西瀧治郎海軍中将が報道班員・新名丈夫氏に語った言葉)

 統率の邪道とも言える特攻作戦を正式に採用し「特攻隊生みの親」と称されたのが大西瀧治郎海軍中将である。何故、大西中将は特攻作戦を採用したのだろうか。

ミッドウェー海戦の敗北以来、熟練パイロットの減少が続き、飛行時間の短い戦闘機乗りが増加していた事。更には開戦当時圧倒的な優位を誇る戦闘機だったゼロ戦(海軍)や隼(陸軍)に勝る性能を持つグラマンなどが登場し、空中戦での戦果が期待できなくなりつつあった事。その様な中、現場から特別攻撃の要望が起こり、体当たり攻撃を実行する者達が出て来た事、などが上げられる。

 実際、特攻は当初それ迄に無い画期的な戦果を挙げた。昭和十九年十月二十五日のレイテ海戦からフィリピン海域での戦闘が終わる二十年一月三十一日までの戦果は、わが軍の損失(特攻機378機、護衛機102機)に対し、敵の損失は、轟沈16隻(護衛空母2、駆逐艦3、水雷艇1、その他10)損傷87隻(大小空母22、戦艦5、重巡洋艦3、軽巡洋艦7、駆逐艦23、護衛駆逐艦5、水雷艇1、その他21)というものであった。

 しかし、大西はこの作戦を展開しても戦況を覆す事は至難の業であると考えていた。大西は日本の将来を見据え、歴史を相手にして決断したのだった。『別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊』には大西中将が第一航空艦隊司令部付報道班員・新名丈夫氏に語った言葉として「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をするわけにはいかない。戦争は負けるかもしれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、祖先はいかに戦ったか、その歴史を記憶するかぎり、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。」と紹介されている。

 祖国に危難が迫った時、それに身命を賭して勇躍と立ち向う青年が陸続と生れて来るならば国家は守られる。だが、わが身可愛さのみで逃亡する者ばかりであったなら、他国に隷従するしかない。国家の独立とはその様にしてしか守られない。その勇気を抱く事を歴史は訴えているのだ。終戦七十年の八月十五日には、例年にも増して多くの人々が靖国神社や各県の護国神社に参拝した。それも若い人々が多かった。その姿の中に日本の未来があり、無言の内に他国に対する大いなる抑止力を示しているのである。

武士道の言葉 その39 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」 その2

$
0
0
「武士道の言葉」第三十九回 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その2(『祖国と青年』27年10月号掲載)

平和を愛するが故に戦いに参加する

平和を愛するが故に戦いの切実を知る也、戦争を憎むが故に戦争に参加せんとする   (古川正崇・『雲ながるる果てに』)

 九月十九日午前二時過ぎ、わが国の安全保障をより強固なものとする為の平和安全法制が漸く国会で議決され成立した。この間の国会審議が不毛に終始したのは、五野党がこの法案を「戦争法案」「憲法違反」と極め付け、問題の本質である安全保障問題を論議させなかったからである。「戦争」と「平和」、それは二律背反の命題では無く、相互に補完する関係にある。戦争の為に戦争を欲する者など殆ど居ない。平和を限りなく求めるが故に、現実世界に生起する戦争や紛争に対応し、克服と解決を期すのである。

 その事を、神風特別攻撃隊振天隊として沖縄で散華した古川正崇さんは「出発の朝(入隊に際して)」と題する詩に謳っている。

「二十二年の生  全て個人の力にあらず  母の恩偉大なり  しかもその母の恩の中に  また亡き父の魂魄は宿せり  我が平安の二十二年  祖国の無形の力に依る  今にして国家の危機に殉ぜざれば  我が愛する平和はくることなし  我はこのうえもなく平和を愛するなり  平和を愛するが故に  戦いの切実を知る也(や)  戦争を憎むが故に  戦争に参加せんとする  我等若き者の純真なる気持を  知る人の多きを祈る  二十二年の生  ただ感謝の一言に尽きる  全ては自然のままに動く  全ては必然なり」

 「我はこのうえもなく平和を愛するなり」の言葉が迫ってくる。大阪外国語学校に学び、その後決然として特攻隊を志願した古川さんの祖国・人生・学問の追求の上に、心の底から平和を希求するが故の、殉国の強い意志が生まれたのである。そして彼は敢然として沖縄に迫り来る米艦目がけて突入した。平和とは空理空論では実現できない。古川さんの言葉はその事を訴えている。




誇りと喜びと

今限りなく美しい祖国に、我が清き生命を捧げうることに大きな誇りと喜びを感ずる。 (市島保男・『雲ながるる果てに』)

 『雲ながるる果てに』は、戦歿学徒の遺稿集である。彼らは大学及び高専を卒業もしくは在学中に、海軍飛行専修予備学生を志願し、その多くは特攻隊として散華した若き学徒達である。戦前の日本では高等教育機関に進学した学生は同世代の一%未満であり、彼らは日本の将来を担うに足る学力を備え、かつその自覚を抱いて学業に励んでいた。第十三期は昭和十八年九月入隊、4726名、内1605名が戦歿した。第十四期は昭和十九年二月入隊(学徒出陣組)、1954名、内395名が戦歿。その多くは特攻隊将校として散華している。

 戦後『きけわだつみの声』という戦歿学徒の手記が逸早く発刊された。だが未だ占領軍による検閲制度下での刊行であり、戦友・遺族の中からは内容に疑問の声が出されていた。そこで昭和二十七年の講和独立を期し、戦友・遺族会(白鷗遺族会)が満を持して出版した本がこの遺稿集である。その後、学徒出陣組である十四期会が昭和四十一年に『あゝ同期の桜』を出版している。第十五期の海軍飛行予備学生だった私の父は『あゝ同期の桜』を生涯座右の書としていた。

 市島保男さんは、早稲田大学から学徒出陣し、神風特別攻撃隊第五昭和隊として沖縄で散華した。市島さんは「この現実を踏破してこそ生命は躍如するのだ。我は、戦に!建設の戦いに!解放の戦いに!いざさらば、母校よ、教師よ!」と記して学窓から旅立った。だが、彼はあくまでも冷静だった。「悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め己れの姿を視つめ古の若武者が香を焚き出陣したように心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。くるべきことが当然きたまでのことであるのに。」

 戦死五日前の昭和二十年四月二十四日の手記「隣の室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持でいたい。人間は死するまで精進しつづけるべきだ。まして大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。私は自己の人生は人間が歩みうる最も美しい道の一つを歩んできたと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情のお蔭であった。今限りなく美しい祖国に、我が清き生命を捧げうることに大きな誇りと喜びを感ずる。」





心卑しからず

心卑しからば外自ずから気品を損し、様相下品になりゆくものなり。 (石野正彦・『雲ながるる果てに』))

 神戸高等商業学校卒の石野正彦さんは、三重航空隊での訓練中に「自省録」を記した。

昭和十八年十月二十日「心卑しからば外自ずから気品を損し、様相下品になりゆくものなり。多忙にして肉体的運動激しくとも、常に教養人たるの自覚を持ちて心に余裕を存すべし。教養人なればこそ馬鹿になりうるなれ。馬鹿になれとは純真素直なれとの謂(いわれ)なり。不言実行は我が海軍の伝統精神なり。黙々として自らの本分を尽し、海軍士官たるの気品を存するが吾人の在るべき方法なり。吾今日痛感せる所感をあげ、もって常住坐臥修養に資せん。

一、黙々として己が本分を尽すべし。
二、海軍士官たるの気品を備うべし。
三、男子は六分の侠気四分の熱なかるべからず。

しかして、誠を貫くことは不動の信条なり。寡黙にしてしかも純真明快、凛然たる気風を内に秘め、富嶽の秀麗を心に描きて忘るべからず。」

 戦歿学徒の遺稿には、「死」を必然化した青年達の、凝縮した「生」に対する真剣な叫びが綴られている。

 慶応義塾大学出身で神風特別攻撃隊神雷部隊第九建武隊として戦死した中西斎季さんは「陣中日記」に次の様に記している。

「三月×日 死は決して難くはない。ただ死までの過程をどうして過すかはむずかしい。これは実に精神力の強弱で、ま白くもなれば汚れもする。死まで汚れないままでありたい。」

 これらの文章を読むと、特攻隊の青年達が如何に道を求め、特攻迄の短い日々を真剣に生き抜き、真剣勝負の日々を送っていた事が窺われる。

 同じく神風特別攻撃隊第一八幡護皇隊艦攻隊として南西諸島に散った、大正大学出身の若麻績(わかおみ)隆さんも次の様に記している。

「己だけ正しいのみならず、他をも正しくする。他を正しくせんためには、己は純一無雑の修行道を歩まねばならない。一歩行っては一度つまずき、延々とつづくその嶮路を歩まねばならない。搭乗員の生活はいかにもデカダンのように一般に思われている。(略)反対に日々の向上、日々の修養という事が大きく表われている。平和な時代に五十年、六十年をかけて円満に仕上げた人生を、僅々半年で仕上げなければならない。もちろん円満などは望むべくもなかろう。荒く、歯切れよく、美しく仕上げねばならないのだ。」






本当の日本男子

散るべき時にはにっこりと散る。だが生きねばならぬ時には石にかじりついても生きぬく、これがほんとうの日本男子だと思います。 (真鍋信次郎・『雲ながるる果てに』)

私はこの言葉を読み、幕末の志士吉田松陰を思い起こした。亡くなる年に松陰は、弟子である高杉晋作の問いに対し、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」と答えている。真鍋さんも松陰の事を勉強していたのかもしれないが、特攻隊の青年は二十二歳で松陰の境地に達している。真鍋さんは九州専門学校から予備学生を志願し、昭和二十年五月に南西諸島で散華した。

この言葉の少し前には「およそ生をうけたものはすべて死すべき運命をもって生まれてきております。必ず死ななければならないんです。(略)だから死すべき好機を発見して死ぬことができたならば大いに意義ある人生を過ごしえたことになると思います。御国のために死ぬということは天地と共に窮りなき皇国日本と、とこしえに生きることであると思います。」と記している。

 中央大学出身で神風特別攻撃隊神雷第一爆戦隊として沖縄方面で散華した溝口幸次郎さんは、自らの人生について次の様に記している。「生まれ出でてより死ぬるまで、我等は己の一秒一刻によって創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞうをきざみつつあるのです。(略)私の二十三年間の人生は、それが善であろうと、悪であろうと、悲しみであろうと、喜びであろうとも、刻み刻まれてきたのです。私は、私の全精魂をうって、最後の入魂に努力しなければならない。」

 「最後の入魂」とは素晴らしい表現である。特攻隊員の多くは、自らの人生を祖国日本に捧げる事を決意し、特攻までの残された人生の時を、最後の成功を期して猛訓練に励みつつ、自己完成を目指して精進している。『雲ながるる果てに』には、最高学府に学びかつ国家の運命を莞爾として受け止めて特攻隊を志願した当時の二十代前半の青年達の求道の記録が刻まれている。学問の道に進んだ彼らの本質は文人である。しかし彼らは、祖国防衛の為の武人たるべく立ち上がり、戦いに身を投じた。死ぬまで道を求め続けた彼らの姿の中に、文武両道を目指す日本武士道の精華を見出すのである。

 人間一人一人に与えられた人生の時間は限られている。私にも残された時間は少ない。二十数年の時間しか与えられなかった特攻隊の青年達の、真剣なる生の表白に真向かうとき、粛然として襟を正され我が身を省みさせられるのである。

「武士道の言葉」その40 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その3

$
0
0
「武士道の言葉」第四十回 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その3(『祖国と青年』27年11月号掲載)

美しき祖国への信

神州の尊、神州の美、我今疑ハズ、莞爾トシテユク。萬歳。 (黒木博司海軍少佐「遺書」)

 昭和十八年になると、米軍の反転攻勢が強まり、不利な戦況を挽回するには物量の差を跳ね返す様な「一人千殺」の必勝兵器の開発が必要との声が、現場の潜水艦将校の中から起って来る。その様な中、呉軍港外の秘密基地にあって甲標的(特殊潜航艇)の艇長教育を受けていた黒木博司中尉と仁科関夫少尉は、世界最優秀の九三式魚雷を改造する人間魚雷の構想をまとめ上げ、その構想を実現すべく海軍省軍務局に出頭して膝詰め談判を行った。昭和十八年十二月二十八日の事である。
だが、その情熱は諒とするも、「必死必殺」の人間魚雷の採用には軍当局も難色を示し、許可は下りなかった。それでも二人は血書、上申を繰り返す。試作艇の開発が始まったのは十九年二月二十六日。七月下旬には完成し、黒木大尉・仁科中尉が試乗。八月一日、海軍大臣の決裁が下り、『回天一型』が誕生した。

 人間魚雷を操縦して狭い水道や種々の難関を突破して敵艦に見事体当たり出来る為には搭乗員に対する、心技体の向上訓練が欠かせなかった。訓練の一回だけで黒髪が真っ白になる程心身を消耗したとの話があるが、余程の精神力・使命感・胆力・平常心が備わらなければ人間魚雷での戦果を挙げる事は出来ない。その訓練の先頭に立ったのが黒木大尉だった。

 ところが、十九年九月六日十八時二分、黒木大尉と樋口大尉が乗る回天は、訓練中に海底に沈坐し、操縦不能となる。黒木中尉は迫り来る死と戦いながら遺書を認めた。「事前ノ状況」「応急措置」「事後の経過」「追伸」と後生に托す為に、問題点を考察して書き続けた。そして七日四時四十五分「君ガ代斉唱。神州の尊、神州の美、我今疑ハズ、莞爾トシテユク。萬歳。」と記し、六時「猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。萬歳」と書き絶筆した。黒木少佐の神州不滅の絶対の信こそが回天を生み出したのである。




今日のこの日の為に

   明治天皇御製
あらはさん秋は来にけり丈夫がとぎしつるぎの清きひかりを(義烈空挺隊・町田一郎陸軍中尉)

 陸上自衛隊西部方面総監部がある熊本市の健軍駐屯地の中に「義烈空挺隊」の慰霊碑があり、毎年五月二十四日には自衛隊の主催で慰霊祭が行われている。

 昭和二十年五月二十四日、健軍飛行場を飛び立った十二機(各十四人搭乗)の九七式重爆撃機は沖縄を目指した。沖縄に上陸した米軍の北(読谷)飛行場、中(嘉手納)飛行場を強襲して破壊する事がその任務だった。十二機中一機は北飛行場に突入成功、七機が撃墜され、四機は突入を断念し引き返した。胴体着陸した爆撃機に搭乗していた空挺部隊は、敵戦闘機二機、輸送機四機、爆撃機一機を破壊し、二十六機に損傷を与え、ドラム缶六百本の集積所二か所を爆破、七万ガロンの航空機燃料を焼失させた。

 元々、義烈空挺隊は、日本の各地を空襲するB29爆撃機の発進基地である、サイパンのアスリート飛行場の破壊を主任務として編成された。だが、中継基地である硫黄島の戦況悪化により、沖縄戦への投入となったのである。空襲に苦しむ国民の仇を討つ可く、爆撃機の飛行場への特別攻撃隊として編成されたのだ。義烈空挺隊は、陸軍挺身第一連隊(空挺落下傘部隊)の一箇中隊(隊長・奥山道郎大尉)と、隊員達を載せて敵飛行場に強行着陸する第三独立飛行隊(隊長・諏訪部忠一大尉)で編成された部隊である。

 挺身部隊はレイテ島の戦いで各地の飛行場に空挺作戦を行い成果を挙げていた。戦争末期の七月には、サイパン・グァムへの陸海合同での空挺攻撃、原爆投下後は原爆集積地であるテニアン島への空挺作戦も立案された。
 町田一郎中尉は、第三独立飛行隊所属で、義烈空挺隊四番機の操縦手である。その四番機が唯一突入に成功し、多大な戦果を挙げた。町田中尉は、群馬県出身の二十二歳だった。

掲載した歌は、昭和十九年中頃、挺進練習部の構内にあった独身将校宿舎の廊下に張り出されたものだと言う。町田中尉は、明治天皇御製「あらはさむときはきにけりますらをがとぎし剣の清き光を」(明治37年)を自らの信條として、書き写されたのであろう。顕すべき決戦の時に向って、日々訓練に励み、力量を高め上げて行ったその誇りと決意が、この御製に映し出されたのである。中尉が磨き上げた剣の清き光は敵を斃し、赫々たる戦果を顕した。

 吾々も人生の勝負の時に備えて、日々魂と力量とに磨きをかけて、国家社会に役立つ日本人に成らねばならない。



一気に登り極めんこの一筋の道を

数々の道はあれども一筋に登り極めん富士の高嶺を(第16独立飛行中隊・小坂三男陸軍中尉)

 B29爆撃機を中心とする無差別絨毯爆撃は沖縄以外にも46都道府県428市町村に対して行われ、その死者数は56万2708人(ウィキペディア・朝日新聞社『週刊朝日百科 日本の歴史 12 現代 122号・敗戦と原爆投下』)に達している。史上稀にみる無差別殺戮を米国は敢行したのである。

 B29は完全与圧室を装備し、高度一万メートルでも乗員は酸素マスク無しで操縦が出来た上に、最大速度は576キロでゼロ戦よりも速かった。超高空に飛来して爆撃するB29には高射砲も届かず、防弾装備が優秀で20ミリ機関砲でもあまり効果が無かった。それ故、体当たりして落とす他に道が無かったのである。B29に最初に体当たり攻撃をしたのは、十九年八月二十日山口県の小月飛行場第4戦隊の野辺重夫軍曹だった。同年十一月七日、帝都防空担当の陸軍第10飛行師団は隷下の各飛行戦隊に各四機宛の体当たり特攻隊を編成させ、震天制空隊と命名した。

 超高度で飛来するB29に対して体当たり攻撃をするにはかなりの技量が必要となる。しかも、装備品を出来るだけ軽くした上に、酸素マスクを着用しての急上昇である。だが、その一方では、体当たり直後に脱出し、落下傘で生還する事が可能でもあり、抜群の技量を持つ操縦者には生還が求められても居た。

 帝都防衛の陸軍飛行第244戦隊は、撃墜84機(B29は73機)撃破94機(同92機)という大きな戦果を上げている。小林戦隊長を始め数名のパイロットは二回体当たりを敢行し、生還している。熊本出身の四宮徹中尉は昭和十九年十二月三日、来襲したB29に三式戦闘機を以て体当たりし、左翼の半分が千切れたが無事帰還している。中尉はその後、第19振武隊隊長となり四月二十日に沖縄で特攻、散華している。

 小坂三男中尉は関西・中京地区の防空に当る第16独立飛行第82中隊に属し、二十年一月三日、堺市上空でB29に体当たりして散華した。小坂中尉のこの歌には、超高空を飛ぶB29爆撃機に真直ぐに向って上昇する戦闘機の一筋の姿が映し出されていると共に、富士の高嶺に象徴される丈夫の気高き生き方に肉迫せんとする、高き志と強靭なる意志が映し出されており、空対空特攻隊員の心意気が見事に表現されている。



日本人の永遠の生命

来る年も来る年も又咲きかはり清く散る花ぞ吾が姿なる(第141振武隊長・長井良夫陸軍中尉)

 鹿児島には海軍特攻隊が出撃した鹿屋・指宿、陸軍特攻隊出撃の知覧・万世など、様々な所に特攻隊の慰霊碑が建立されている。特に知覧と鹿屋は有名で、遺書や遺影なども数多く展示され、特攻隊を偲ぶ聖地となっている。

知覧の兄弟基地である万世は、戦後長い間、世の人の記憶から忘れ去られていた。万世に慰霊碑が建立され、初めての慰霊祭が斎行されたのは昭和47年の事である。慰霊祭を契機として遺族の方々が持たれていた遺稿や遺影が明らかとなり、昭和49年に慰霊戦記『よろづよに』(430頁)が出版される。この出版によって遺族の輪が更に広がり、昭和51年には改訂増補版として『万世特攻隊員の遺書』(478頁)が刊行される。その様な中で特攻遺品館の建設構想が生まれ、一億円の浄財募金が集まり、更に地元の加世田市が二億五千万円を追加計上して、市の事業として特攻遺品館(平和祈念館)が平成五年に完成した。それに併せて『陸軍最後の特攻基地 万世特攻隊員の遺書・遺影』(529頁)が出版された。更に平成二十三年には集大成版である『至純の心を後世に 陸軍最後の特攻基地・万世』(561頁)が出版された。

これら一連の事業を起案し推進されたのが、飛行66戦隊所属で、万世飛行場で沖縄特攻作戦に従事し特攻隊の発進援助に当っていた苗村七郎氏である。戦後大阪に戻った苗村氏は、昭和三十五年の鹿児島再訪以来、平成二十四年に九十一歳で亡くなる迄、終生万世特攻隊の慰霊顕彰に尽くされた。

 万世では、桜花爛漫の四月下旬に毎年慰霊祭が斎行されている。桜の如く散った特攻隊員の御魂を偲ぶ最良の時であるからだ。万世から飛び立ち、二十二歳で散華した第141振武隊隊長の長井良夫少尉(宮城県出身)の辞世は、特攻隊員の心象を美しくも見事に表現している。長井少尉の魂は、毎年毎年咲き代わり、咲いては散り、散っても翌年再び咲き匂う桜と化し、永遠の大和魂に成っている。長井少尉の生命は個としてではなく、桜の木々に亘る大生命へと溶け込んでいる。

国の生命とはその様なものではないのだろうか。祖国日本の永遠を信じて生命を捧げた者達は、国の生命と一体となり、祖国日本の永遠によって無窮の生命を得るのである。特攻隊員たちが身を捧げて守らんとした祖国日本の生命を私達も守り抜き、祖国の生命に何時の日か帰し得る人生を全うしたい。

「武士道の言葉」その41 大東亜戦争・敗戦の責任を果した将兵 その1

$
0
0
「武士道の言葉」第四十一回 敗戦の責任を果した将兵 その1(『祖国と青年』27年12月号掲載)

敗戦の責

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル(陸軍大臣 阿南惟幾)

 昭和二十年八月十五日、国家の総力を尽して戦い抜いた大東亜戦争は、昭和天皇の御聖断によってポツダム宣言を受諾し終結した。国家未曽有の敗戦である。

 首都ベルリンが陥落したドイツと違い、当時の日本は沖縄を失ったものの、昭和十九年末から準備した二千八百万名に及ぶ「国民義勇隊」を組織化し、更に「国民義勇戦闘隊」の編成に着手していた(藤田昌雄『日本本土決戦』潮書房光人社)。本気で「一億総玉砕」・徹底抗戦を準備していたのである。更には、支那大陸では連戦連勝していた百五万人の支那派遣軍が健在だった。岡村寧次総司令官は八月十一日に「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」との電文を中央に送っている。

 これらの戦力を背景に阿南陸軍大臣は、御前会議に於て徹底抗戦を主張した。だが昭和天皇は、これ以上の犠牲を見るにしのびない、自分の身はどうなろうとも国民を救いたいとの大御心を示され、終戦の御聖断が下された。かつて侍従武官を務めた事もある阿南陸相は陛下にとりすがって号泣したが、陛下も涙を流しながら「阿南、阿南、お前の気持は良く解る」と仰せになった。御聖断の後に閣議が開かれ、国家としての終戦が決定する。阿南陸相は署名し花押を認めた。

 これからが、阿南陸相の本領発揮である。徹底抗戦を主張する陸軍の急進派の前に立ち塞がって陛下の御意志である終戦を実現せねばならない。阿南陸相・梅津参謀総長連名で告諭を発し、省内の将校を集めて決意を述べ、「不満に思う者は、まず阿南を斬れ」と付け加えた。そして、八月十四日深夜、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」との遺書を認め割腹自決した。遺書の裏には「神州不滅ヲ確信シツゝ」と付け加えてあった。





特攻隊勇士への責任

特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。 (海軍中将 大西瀧治郎)

 特攻隊の生みの親である大西瀧治郎海軍中将は、特攻隊を送り出す度に胸を痛め、自らも必ず後に続く事を心に誓っていた。終戦が決まった八月十五日の深夜二時頃、官邸にて割腹自決、腹を十文字にかき切り、返す刀で頸と胸と刺した。それでも数時間は生きており、翌朝発見され駆け付けた軍医に「生きるようにはしてくれるな」と述べたと言う。絶命したのは十時頃だった。

 遺書は五通あったといわれているが判然とはしていない。その中で明らかになっているのが次の遺書である。

「特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨に副ひ奉り、自重忍苦するを誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ。諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為
最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎        」

欄外に「八月十六日 
富岡海軍少将閣下   大西中将
御補佐に対し深謝す。総長閣下にお詫び申し上げられたし。別紙遺書青年将兵指導 上の一助とならばご利用ありたし
               以上」と記されていた。

更に奥様の淑恵さんに宛てた遺書。

「淑惠殿へ
 吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す。淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
              以上
之でよし百萬年の仮寝かな 
    」
奥様宛の遺書は丸みを帯びた優しい文字で綴られていた。





日本学生協会出身将校の自決

魂魄トコシヘニ祖國ニ留メテ玉體ヲ守護シ奉ラム(海軍少尉 寺尾博之)

 福岡市の郊外にある油山の油山観音から少し登った奥まった所に、終戦後自決した二人の海軍軍人の顕彰碑が建立されている。建立されたのは昭和三十三年八月二十日、爾来この碑の前で国民文化研究会の方々によって慰霊祭が執り行われて来ている。自刃した二人は、長島秀男中佐と寺尾博之少尉である。寺尾少尉は高校在学時より、国民文化研究会の前身たる日本学生協会の学風改革運動に挺身され、全国各地の高校・専門学校巡回のメンバーとしても活躍されていた。

私はかつて、故名越二荒之助先生から戴いた葉書に「多久さんの文章に触れ、その行動、発言、文章に触れる度に想起するのは国文研の前身、学生協会時代の寺尾博之さん(いのちささげて前篇)です。多久さんには寺尾さんの魂がのり移ったのではないか。輪廻転生を信ずるようになりました。寺尾さんは小生より二歳年長で仰ぎ見る存在でした。終戦後の油山で長島中佐の介錯をし、自らは腹十文字に突いて自決しました。彼の生前のさわやかで謙虚、そして透徹した雄弁、論文の見事さ、多久さんとダブって仕方ありません。御健闘祈上つゝ」(平成十八年三月十七日)とあり、寺尾少尉の事が深く思われてならない。顕彰碑の碑文。

「昭和20年8月15日、大東亜戦争終戦の大詔下るや、九州軍需管理部に所属せる海軍技術中佐 長島秀男、海軍少尉 寺尾博之は8月20日未明、この地において遥かに皇居を拝し古式にのっとりて割腹自刃せり。
長島秀男中佐は埼玉県秩父郡横瀬村出身、東京文理科大額を卒業、昭和12年身を海軍に投じ技術部門における改良に尽力航空魚雷の研究においては当代の第一人者たりき、行年39歳、遺書に曰う

唯二、上御一人の御心を悩まし奉り候のみならず、一億国民を難苦の底に沈ませ候事誠に申し訳無之、所詮死を以って
お詫び申すべき次第に候

寺尾博之少尉は京都市出身 旧制高知高等学校より東京帝国大学農学部に進みしが、高校在学時よりわが国の思想伝統を仰ぐ事深切、全国の学生有志と共に学風の改革に挺身せり、

昭和18年12月学徒出陣、海軍に入る、行年25歳、遺書に曰く
一死以て臣が罪を謝し奉り 併せて帝国軍人たるの栄誉を保たんとす 願わくは魂魄とこしえに 祖国に留めて 玉体を守護し奉らむ
両烈士の純真、至誠、温容なほここに在りて我等を先導し給うごとし、ここに有志一同 その志を仰ぎ祖国日本の恒久を願ひて之を建つ
長島 寺尾両烈士顕彰会」





父の上官の自決

故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ (松浦勉海軍大佐の訓示)

 私の父は、終戦六十年の平成十七年十一月に亡くなった。その時皆さんから戴いた香典の一部を、父が最期まで気に止めていた靖国神社に寄付を申し出た。その時、神社側から何方かの永代供養をされたら如何ですかとの有り難いアドバイスを戴いた。そこで、昭和二十年八月二十八日に自決して亡くなられた松浦勉海軍少佐の事が思はれて永代供養させて戴いた。松浦少佐は父の上官だった。

 父は、熊本師範学校から学徒出陣し、第十五期海軍飛行予備学生になった。土浦航空隊で訓練に励んだが、土浦が空襲を受けた後は福井県に移動し、九頭竜川河口グライダーによる特攻訓練をしていた。学生達は丁度二十歳前後であり、血気盛んだったという。敗戦が決まるや、学生達はマッカーサーの本土上陸時の斬り込みを志願していたという。その時、上官の松浦少佐が、「終戦の大詔が降った以上、お前達は陛下の大御心に従って、祖国の為に力を尽くさねばならない。各自、故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ。」
と諭されたと言う。

松浦少佐は当時三十歳前後であるが、学生達は心の底から心服していた。それ故、父は泣く泣く熊本に戻り、熊本の教育界で人づくりに尽力した。所が、松浦少佐は学生達を送り出した後、米占領軍先遣隊が厚木に進駐した八月二十八日に、福井県坂井郡芦原町(現あわら市)の水交社で自刃された。予備学生達の思いを一身に担って敗戦の責をとられたのである。

 私は、永い間この事実を知らなかったが、大学生になって祖国再建運動に尽力する様になってから父は当時の事を話す様になった。それでも、少佐の事は父が教え子の方に話したのを横で聞いたのが初めてである。

昭和六十一年に福井県に行く機会が有り、その時芦原町を訪れ、父が訓練していた海岸や街を訪ねた。その時に逢った方が、昭和二十年頃は海軍の学生さん達が一杯居ましたとの話をして下さり。松浦少佐の事を述べると、何と御存知で、松浦少佐が下宿されていた部屋に案内して戴いた。松浦少佐の御魂が導いて下さったのであろう。そして、水交社跡も訪れ祈りを捧げた。だが、慰霊碑も何も残ってはいなかった。『世紀の自決』には、遺影と奥様が記された事実関係のみの短い文章が掲載されているだけである。少佐は岡山県笠岡市大宜の御出身とある。父達を教え諭した松浦少佐が居られたが故に、今の私もある。

「武士道の言葉」その42 敗戦の責任を負い自決した将兵 その2

$
0
0
「武士道の言葉」第四十二回 敗戦の責任を負い自決した将兵 その2(『祖国と青年』28年1月号掲載)

日本人を慕って自決したインドネシア青年に殉じた軍人の情愛

カリムが可哀そうなので一緒に逝きます。 (陸軍憲兵曹長 上遠野勇吉)

 昭和二十年八月二十八日、ジャワ駐屯第十六憲兵隊の上遠野勇吉陸軍曹長(二十八歳・福島県出身)は、憲兵補ラデン・アブドル・カリムの墓前で拳銃自決した。鉛筆の走り書きの遺書には「皆様、大変お世話になりました。カリムが可哀そうなので一緒に逝きます。死体はカリムのそばに埋めて下さい」とあった。

 敗戦に伴い、現地で日本軍に協力していたインドネシア憲兵補達は除隊となった。事情を説明し、家を買い与えるなどそれぞれの身の振り方を決めて、八月二十四日に除隊式が行われた。皆から弟の様に可愛がられていたカリムは、マドラ貴族出身の二十歳、日本に連れて行って欲しいと懇願していた。だが、それは叶わなかった。二十五日朝、カリムは憲兵隊に行き憲兵補の服装のまま自決してしまった。ワイシャツに「大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳」と日本語で記し、マレー語で次の遺書が残されていた。

「私はインドネシア独立と日本戦勝の為、またマドラ防衛の為、決死の覚悟で日本軍と共に闘って来ました。が、日本軍は今帰国しようとしています。私は一緒に日本へ行きたいのですが、許されません。私は悲しくてなりません。私は日本軍の指導に対し全インドネシア青年を代表し、血を捧げて御礼申し上げます。大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳」

 上遠野曹長は、愛すべき「弟」の死に殉じたのである。「人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん」(魏徴)という言葉があるが、当時の日本人には「意気に感じる」優しさがあり、生命を擲つ勇気と行動力があった。大東亜戦争時の日本人は、強くて優しかった。その事は、アジア各地での現地人の協力の姿が示している。大日本帝国に身を捧げた現地青年に殉じた上遠野曹長、日本とインドネシアの絆の実証として永遠に語り継いで行きたい。






敵に「武器」を渡す屈辱

武人の節を穢し 誠に申訳なし (海軍大尉 小山悌二)

 「日本刀は武士の魂」と言う様に、武人にとっての武器は、戦いを遂行する「魂」にも等しかった。

終戦後、ヤップ島警備隊の小山悌二海軍大尉(二十二歳・長野県出身)は、武器弾薬の米側への引き渡し作業の責任者として率先垂範、九月二十四日、作業終了を見届けた後、翌二十五日午前四時頃士官寝室にて軍服着用のまま宮城に向って正坐し、日本刀を以て自決した。遺書には「武人の節を穢し 誠に申訳なし」とのみあった。

自刃時に使用した日本刀は、父親が学生時代に柔道大会優勝の際に特別賞として貰った慶長新刀常陸守藤原寿命を軍刀として仕上げた名刀で、海軍兵学校最終学年時の十七年夏の帰省時に餞として贈られたものだった。小山大尉は十八年正月に「今年の覚悟 卒業と共に第一線に立つべき意気込みにてまず学業に専念せん 一日一刻を全精神を集中すること 明朗快活 努力 人を正面より見ること 団結協力 臍の力」と「自啓録」に記している。大尉は強き意志の人であった。

 九月十八日未明、済州島漢拏山谷口隊陣地では、野戦重砲十五連隊第三中隊長の谷口章陸軍大尉(二十二歳・滋賀県出身)が自決した。当日は大尉の預かる十五榴弾砲四門とその附属兵器とを米軍に引き渡す日だった。その六日前、谷口大尉は同期生の石橋大尉に「祖国は亡びた。祖国と運命を共にするのが、市ヶ谷台の精神だ。皇軍将校はこの際、一死以て天皇陛下にお詫び申上げるべきだ。また、大砲引き渡しも決定した今日、砲兵中隊長は火砲と運命を共にするのが皇軍砲兵の伝統精神に生きる道と思う。従って自分は、すでに散華した多数同期生の後を追う積りだ。」と語っていたと言う。

 武器引き渡しに際し、事務上の食い違いから責任を取って自決した将校も居た。第二十六野戦航空修理廠の金原重夫陸軍少尉(三十二歳・静岡県出身)である。金原少尉は漢口で武器引き渡し業務を担当していた。だが、数量に意外な相違が生じ折衝は難航、部隊は苦境に立たされた。その時、消耗品出納責任者であった少尉が、一切は自分の責任であるとして、九月二十一日午後八時に天皇陛下万歳と叫びつつ拳銃で自決した。この事があってから中国側の態度は一変し、移譲は円滑に進行したという。正に、金原少尉の生命を捧げた至誠が敵兵をも感動せしめ、部隊を救ったのである。






夫婦・家族で大日本帝国に殉じた人々

我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり (海軍大尉 長瀬 武)

 『世紀の自決』(芙蓉書房)の第二部には、夫婦、更には家族で、大日本帝国の終焉に殉じた十二夫妻の事が記されている。明治天皇に殉じた乃木将軍夫妻の如く、夫の殉国の決意を妻も受容し、更には自らの意志で同行を決意している。

 終戦時、佐世保軍需部に勤務していた長瀬武海軍大尉(三十歳・石川県出身)は外志子夫人と共に、八月二十一日午前零時、佐世保前畑火薬庫裏の丘上にて自決した。大尉は海軍の正装、夫人はモンペ姿だった。共にポケットの中に日の丸の旗(外志子夫人のお母様が結婚式の際に与えられたもの)が入れてあった。

長瀬大尉は自決当日母方の伯母に次の遺書を送っている。

「有難き陛下の大御心、一点の疑もなし、涙もて拝す、余りにも大君の恵多く幸福すぎし余の三十年、我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり、妻の一徹亦固きものあり。僅か二年の余の教育による妻の決意如何ともなし難し、御厚情を深謝す」

 同日、外志子夫人は母鹿谷初子氏宛に遺書を発送している。

「母上様、いよいよ最後の時が参りました。大詔を奉戴いたしまして天皇陛下の有難き御言葉本当にもったいなくて身のおきどころもございません。でも私達は最後までもっともっと頑張りたかったとそれのみです。舞鶴にて御別れ致しましたのが最後でございました。私の決心どおり致します。佐世保にも敵が参ります。上陸致しましてからはどんな目にあわされるか判りません。貞操をやかましく言われ教育されて参りました私にはどうしても耐えてゆかれません。これが私の思いすごしでございましたらどんなに嬉しいでしょう。私は只それのみ念じて行きます。主人の身も当然覚悟致しております。私にとりまして、どうして耐えてゆかれましょう。(中略)今まで幸福に暮して参りまして私はほんとに幸福だったと喜んでおります。嫁ぎましてから二年間も本当に幸福に暮しました。今は決心どおり身を処しましても私は幸福な人間です。母上様何とぞ御安心下さいませ。気持は落ちついて安らかな気持でおります。母上様も何とぞ御体大切に遊ばしまして国体護持の為頑張って下さいませ」

外志子夫人はミス金沢と呼ばれた程の麗人だったと言う。身も心も美しき大和撫子の決意の自決だった。






貞操を守る為に集団自決した従軍看護婦達

私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。 (新京 第八陸軍病院 陸軍看護婦二十二名)

 昭和二十一年六月二十一日朝、満州・新京(長春)第八陸軍病院で、監督看護婦井上鶴美氏(二十六歳)以下二十二名の看護婦が青酸カリを飲んで自決した。

 当時、新京はソ連軍の占領下にあったが、三十四名の日本人従軍看護婦達には新京第八病院での勤務が命じられていた。ところが、二十一年春、城子溝にあるソ連陸軍病院の第二赤軍救護所から、三名の看護婦の応援要請命令が来た為、三名を選抜して派遣。その後も追加要請があり、十一名が送られた。

更に四回目の申し入れがあり、対応を協議していた六月十九日夜、最初に派遣した大島はなえ看護婦が瀕死の重傷で戻り「私たちは、病院の仕事はしないで毎晩毎晩ソ連将校のなぐさみものにされているのです。否と言えば殺されてしまうのです。殺されても構わないが、次々と同僚の人たちが応援を名目に、やって来るのを見て、何とかして知らせなければ、死んでも死にきれないと考えて脱走して来たのです。」と述べた。そして、「婦長さん!もうあとから人を送ってはいけません。お願いします」との言葉を最後に息を引き取った。

翌日曜日に大島看護婦を土葬し、その夜、残って居た看護婦二十二名は自ら死を選んだ。満州赤十字看護婦の制服制帽を着用して、胸のあたりで両手を合わせて合掌をし、脚は紐できちんと縛られていた。遺書には次の様に記されていた。「二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再びこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、ここの満州の土にして下さい。」と。続けて全員の手書きで名前が記されていた。汚れ物は総てボイラー室で焼却してひとつも残されて居なかった。日本女性の身だしなみだった。

 敗戦に伴い、国家の庇護が失われた時、最大の悲劇が襲うのは女性達である。当時、福岡には二日市保養所という、朝鮮引揚げ女性の為の堕胎病院が特別に設置され四、五百名の女性達が手術を受けている。わが国の女性達がロシアやシナ、朝鮮によって受けた惨劇は歴史の陰に隠され、慰安婦の補償のみが声高に叫ばれている。祖国に殉じて若き生命を断った女性達の事を決して忘れてはならない。
Viewing all 250 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>