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「武士道の言葉」その43 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その1

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「武士道の言葉」第四十三回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その1(『祖国と青年』28年2月号掲載)

一切の戦歿者の供養を以て世界平和の礎に

今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民羅災者の一大追悼慰安祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたい (『世紀の遺書』東条英機「遺言」より)

 大東亜戦争に敗北した日本軍に対し、連合国は「復讐心」を満足させる為に、東亜五十一か所にて「戦犯裁判」なるものを行い、五六七七名の日本人を逮捕して裁判にかけ、一〇六八名の日本人を殺害した。裁判官に加え弁護人迄もが戦勝国側であったこれらの裁判では、元より公平さなど望めなかった。

 裁判で有名なのは所謂「A級戦犯」(国家指導者)を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)である。日本近代史を「侵略」の名の下に処断した東京裁判は、起訴が昭和天皇誕生日、判決が明治天皇誕生日(実際は少しずれた)、処刑が皇太子殿下(現在の今上天皇)誕生日に合せて行われた。正に、日本弾劾の為の一大プロパガンダだった。大東亜戦争開戦時の首相だった東条英機は天皇陛下に責任を及ぼさない為に、公判上で起訴状に対する反論を堂々と陳述した。大東亜戦争は米英によって陥れられた戦争であり、わが国の東亜政策は決して間違っておらず、世界制覇の野望など微塵も無かった事を事実にそって綿密に反証した。だが、それは無視された。

 死刑判決を受けた東條は遺言で「今回の刑死は、個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て贖えるものではない。しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負つて満足して刑場に行く。」と記し、国際的には無罪だが、日本国民に対する「敗戦責任」を負って死ぬ事を述べている。

 更に東条は、「今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民羅災者の一大追悼慰安祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。」と記している。自分たちの犠牲によって敵味方の憎悪の炎が収まり和解して、真の世界平和が訪れる事を願ったのである。






良心に曇りなし。

私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思ふ。 (『世紀の遺書』本間雅晴「辞世」)

 昭和二十一年四月三日、フィリッピン・マニラ市のロス・バニヨス刑場で、本間雅晴元陸軍中将は銃殺刑に処せられた。五十九歳だった。

本間中将は、開戦当時第十四軍司令官としてフィリッピンを制圧してマッカーサー元帥を敗退させた。フィリッピンに膨大な土地を保有していたマッカーサーは「I Shall Return(私は、必ず戻って来る)」と嘯いてフィリッピンを後にした。戦勝後、その恨みの矛先が本間中将に向けられた。「バターン死の行進」なるものをでっち上げたのである。

確に、長期籠城戦後に衰弱していた捕虜を収容所に移動させる為にバターン半島を移動させ、その途中で数多くの捕虜が亡くなったが、それらの捕虜の死因の殆どは赤痢やマラリアだった。それを「死の行進」を企図していたとして裁いたのである。

 本間は子供三人に宛てた手紙で次の様に述べている。「死刑の宣告は私に罪があると云うことを意味するものに非ずして、米国が痛快な復讐をしたと云う満足を意味するものである。私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思ふ。戦友達の為に死ぬ、之より大なる愛はないと信じて安んじて死ぬ。」と。

「日本国民は全員私を信じてくれると思ふ」の言葉が重い。自虐史観から脱却出来ない戦後教育は、本間の確信を裏切る青年を未だに輩出している。

 マニラ法廷で感動的な事が起った。本間の妻・富士子がマニラ迄来て証言台に立ったのである。

角田房子『いっさいは夢にござ候』はその時の言葉を次の様に描いた。弁護人からの「あなたの目にうつる本間中将はどのような男性か」との尋問に対し、富士子は「わたしは東京からマニラへ、夫のためにまいりました。夫は戦争犯罪容疑で被告席についておりますが、わたしくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。わたくしに娘が一人ございます。いつかは娘が、わたくしの夫のような男性とめぐりあい、結婚することを心から望んでおります。本間雅晴とはそのような人でございます。」と。

本間は日記に、この日の感動を記した。

「この言葉は満廷を感動せしめ何人の証言よりも強かつた。(略)日本婦人と云うものを知らぬ米人並比人に日本婦道をはつきり知らしめた英雄的言動であつた。私は是だけでも非常に嬉しく思ふ。日本婦人史に特筆すべき事蹟と思ふ。」







日中の和解の為に身を捧げる

我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです (『世紀の遺書』向井敏明「辞世」より)

 東京裁判では、昭和十二年の南京攻略時の上海派遣軍司令官であった松井石根大将を「南京大虐殺」の罪状で処刑したが、現地に於ても「生贄」が求められ、第六師団長だった谷寿夫中将を責任者として銃殺し、更には「三百人斬」で田中軍吉陸軍大尉、「百人斬」競争を行ったとして、向井敏明少尉、野田毅少尉が処刑された。「南京大虐殺」自体が虚構に過ぎないのだが、第六師団に限っても、攻撃部隊であり、南京には一週間しか滞在せず直ぐに撫湖に転進している。虐殺している余裕等ない。更には、三百人斬や百人斬りなど日本刀では絶対にありえない。それでも、強引にこじつけて罪人=生贄を生み出し、銃殺したのである。

 向井は遺書の中で「努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る人は無い様です。恐ろしい国です。」と記している。

向井は堂々たる辞世を残している。

「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せること全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
 中国の御奮闘を祈る
 日本の敢奮を祈る
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井敏明 」

戦犯裁判で裁かれた者達は、今行われている事が、「裁判」の名を借りた復讐劇・私刑(リンチ)である事を重々承知していた。彼らは軍人=武人だった。出征の時から死を覚悟し、国の為に働き、生きては帰らぬと心に定めていた。

それ故、「戦犯」としての死も、「敗戦という大変事による冷酷な運命」(三浦光義海軍上等兵曹)「職務上の玉砕」(野澤藤一陸軍曹長)「唯笑って国に殉じます。すべては敗戦の生んだ悲劇」(中野忠二海軍兵曹)と諦観した。只唯一の心残りは自らの名誉と死の意味だった。

軍属の浅井健一は「私は日本の建設の礎となって喜んで行きます。戦犯者となるも決して破廉恥とか私事で刑を受けたのではないことを記憶して下さい」と記しているが、多くの遺書にも同様の言葉を見出す。







成仏はせぬ。供養は一切不要。

断ジテ成佛ハセズ。故ニ一切ノ追善供養ハ何卒何卒無用ニ願上候  (『戦犯裁判の実相』篠原多磨夫訣別の辞「舌代」)

 各国での裁判が終結した後、巣鴨には各地で服役中の「戦犯」達が送られて来た。更に、朝鮮戦争の勃発により、巣鴨の米軍看守は出征し、日本人看守に代り、管理体制が緩和される。講和条約調印後の昭和二十七年三月一日、戦犯在所者が連絡団結し、戦犯釈放運動促進の為の『巣鴨法務委員会』が服役者の自治会という形で発足。一年二か月と十二日かけて、服役者全員から各地での裁判の様子を聞き取り、その実相を大冊『戦犯裁判の実相』として纏め上げ出版した。後に、昭和五十六年と平成八年に復刻されている。

 復刻版のただ一枚のグラビアには、受刑者たちの無念を象徴するかの如く、豪軍法廷マヌス軍事法廷で絞首刑にされた元海軍大佐(徳島県出身)の篠原多磨夫の訣別の辞「舌代」の写真が掲載されている。篠原は叫ぶ。「拙者儀未熟者ニテ死亡後怨霊トナリ大日本国ニ留ル所存ナルヲ以テ断ジテ成佛ハセズ。故ニ一切ノ追善供養ハ何卒何卒無用ニ願上候」と。篠原の怒りは受刑者全員の怒りでもあった。『戦犯裁判の実相』に掲載されている、裁判の記録並びに各地の収容所での日本兵虐待の記録は、凄まじいものである。

「収容所全員も約三ヵ月の間、毎日灼熱の石の上に坐らされ特に夜間八時頃より十二時迄は殴打激しく毎夜一、二名必ず人事不省になる事あり。」(クーパン・寺尾勇太郎証言)

「マカッサルに連行された時には定った様に二、三時間天皇拝み(不動の姿勢にて太陽を直視すること)をやらされる。勿論南方の太陽を五分も直視出来るものではない。目を脱して居ると時々彼らは廻って来て殴るのである。」(マカッサル・妹尾繁市証言)
「訓練と称して素足のまま硝子の破片、ブリキの破片を捨てた穴の中を行進せしめ、足を切るのを眺めては快哉を叫んでいた。灼けつく炎天下のコンクリートの上を、素足で駈足させ、昨日は十名、今日は十五名と卒倒する者の数を読んだ。」(英領地区証言)

独房に毎晩毎晩酔った兵隊が殴り込みをかけて弄び、片目を失い耳も聞こえなくなり松葉杖をついて断頭台に上る者も居た。当然、自殺した者、暴行死させられた者が多数に及んでいる。この様な生き地獄を体験させられた者達の怨みは消える事は無い。その恨みを胸奥に潜めて戦犯達は死出の旅路に着いたのである。その事も決して忘れてはならない。

「武士道の言葉」最終回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その2

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「武士道の言葉」最終回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その2 (『祖国と青年』28年3月号掲載)

戦犯受刑者の全面赦免は国民の悲願

国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたい (衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」昭和二十八年八月三日)

 戦後の日本にとって、敵国に裁かれた「戦犯」受刑者の解放は国民的な悲願であった。占領下にあっても広田弘毅元首相の減刑嘆願署名が七万名以上集まる等、個別的な救済活動は行われていたが、昭和二十七年四月二十八日の主権回復と同時に、奔流の様な勢いで、戦犯受刑者赦免の運動が広がって行く。

先ず、口火を切ったのは日本弁護士連合会で、同年六月七日「平和条約第十一条による戦犯の赦免勧告に関する意見書」を日本政府に提出、これが契機となって戦犯釈放運動は全国で燃えあがり、約4000万人の署名(共同通信の小沢武二記者によれば、地方自治体によるもの約2000万、各種団体によるもの約2000万という)が集まった。当時の人口は8500万人位だから、成人の大半が署名した事になる。
 それを受けて政府は同年十月十一日、国内外に抑留されているすべての日本人戦犯の赦免減刑を、関係各国に要請した。

 国会でも答弁が行われ、「戦争犯罪なるものは(略)国内法におきましては、飽くまで犯罪者ではない、従いて国内法の適用におきまして、これを犯罪者と扱うということは、如何なる意味においても適当でない」(国務大臣大橋武夫氏)「戦犯者は戦争に際して国策に従って行動して国に忠誠を尽し、たまたま執行しました公務のある事項が、不幸にして敵の手によってまたは処置によって生命を奪われた方々であります」(青柳一郎代議士)「その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。」(社会党・堤ツルヨ代議士)と、全てが「戦犯」及びその遺族に同情的な意見だった。

国会は、昭和二十七年十二月九日と、翌年八月三日の二度に亘り、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を、与野党を越えた圧倒的多数で可決した。日本からは「戦犯」は居なくなったのである。






モンテンルパ刑務所受刑者の救出を!

比島のキリスト教の牧師と、力を合せて宗教家としての助命減刑につくせ  (高松宮殿下の激励の御言葉『モンテンルパに祈る』より)

 東京裁判が終了したのが昭和二十三年十一月、他地域のBC級戦犯裁判も昭和二十六年迄には次々と終結した。多くの受刑者は巣鴨へと送られたが、フィリッピンのモンテンルパ刑務所には多くの日本人が取り残されていた。死刑囚が59人、無期刑囚が29人、有期刑囚20人が収監されていた。昭和二十八年七月二十七日、比国キリノ大統領は全員に特赦又は減刑を与え、日本への送還を許可した。(小林弘忠『天に問う手紙』)。

 ここに至るには長い道のりがあった。モンテンルパに収監されている同胞達を救えとの全国民的な運動が巻き起こり、それがフィリッピン政府に強い要望として届けられたのである。その国民運動の中心に居たのが、復員局で昭和二十二年からフィリッピン裁判担当の任に当っていた植木信吉と、二十四年九月一日からフィリッピン戦争裁判教誨師を委嘱され現地に派遣された岡山県の真言宗僧侶・加賀尾秀忍だった。植木は二十三年秋の検察庁への転出辞令を断って、救出運動に全力を傾注した。加賀尾も当初六カ月の委嘱だったが、自らの意志で現地に留まり最後迄解放の為に尽力している。

 植木の努力で囚人達の家族会が結成され、会誌『問天』が発行される。それが情報発信源となって国民各層に広がり、現地への慰問品や活動支援金が次々と寄せられる様になる。一方、加賀尾は現地での不自由な生活を余儀なくされながらも、日々祈りつつ様々な人々に救出の嘆願書を送り続けた。更には、加賀尾を通して囚人達の声も日本に届き『問天』で紹介された。遂にはマスコミも大々的に取り上げ、現地には国会議員も慰問に訪れ要路に働きかける様になる。囚人達の作詩・作曲の歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌手の渡辺はま子が唄い爆発的なヒットとなる。七年間の弛まぬ努力と国民の熱誠が救出を齎したのだった。

 加賀尾が著した『モンテンルパに祈る』には、現地赴任前に高松宮殿下を訪れ嘆願書の署名を戴いた際に、殿下が「安心して、瞑目せしめるだけではいかぬ。比島のキリスト教の牧師と、力を合せて宗教家としての助命減刑につくせ」と述べて激励された事が紹介されている。加賀尾はその御期待に見事答えた。高松宮殿下も吉田首相に直接嘆願書を送られる等尽力されている。







ソ連抑留十一年四ヶ月の中で刻んだ祖国再建への言霊

書く文字の一字一字を弾丸として皇国に盡す誠ささげむ (伊東六十次郎『シベリヤより祖國への書』)

 昭和二十年八月九日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満身創痍の日本に対して宣戦を布告し、満州・樺太・千島列島に怒涛の如く進撃した。スターリンは北海道分割を米国に提案したが、断られた。そこで、北方領土を軍事占領し、かつ満州等で武装解除した日本軍将兵をシベリアへ強制連行した。その数は約70万名に及び、約10万が亡くなった(長勢了治『シベリア抑留全史』)。

 昭和四年に東京帝大(西洋史専攻)を卒業して満州に渡り、自治指導部の創設に参画し、満州国建国後は大同学院教授となり協和会中央本部で復興アジア運動の思想的・基礎的研究に精魂を傾けた人物に伊東六十次郎が居る。伊東は、満州国崩壊後シベリアに抑留され、その抑留期間は十一年四ヶ月に及んだ。ソ連のスターリン主義を批判し、己が所信を曲げず、圧力に屈しなかったが為に、要注意人物としてマークされ、強制労働二十五年を科せられた。

 この間伊東は、戦友中の同憂の士と共に、祖国の再建と民族の復興を祈念して「日本敗戦の原因に対する基本考察」と「日本民族建設の具体的要綱」について討議研究して文章化した。伊東は記す。「昭和二十年八月二十四日に、桓仁警備の陣中に於て「日本民族建設の具体的要綱」の覚書の記録を中隊長から委嘱されて以来、終始、本書の記録の責任に当ったのが筆者である。然しながら捕虜生活の極めて困難な条件の下に於て、筆者に執筆の時間と場所とを与へて呉れたのが戦友であり、また筆者に捕虜生活の初期に於ては、凡そ想像以上の貴重品であつた紙、ノート、鉛筆、インク、ペン先等を提供し、机等を作つて呉れた戦友も多かつた。更に各捕虜収容所に於ては戦友は苛酷な強制労働のために疲れて居るにも拘はらず、本書の原稿を検討研究して、辞句や内容の修正をして呉れたのである。」と。正に祖国を思う同志達の総合力でこの著作は完成している。

 だが、草稿はソ連当局によって八回も没収され、九回目の草稿が、訪ソして慰問に来た参議院議員戸叶里子氏のハンドバッグの中に隠されて奇跡的に日本に届けられたのだった(『満州問題の歴史』解説)。それを元に、帰国半年後に『シベリヤより祖國への書』が出版された。正に命懸けの執筆であり、書く文字の一字一字を弾丸として祖国に誠を捧げたのである。文章を書く者として粛然と襟を正される「留魂の書」である。






 
日本人の誇りを持って逆境に立ち向かったある一等兵の信念の言葉

でも、私たちは負けない。なぜか?それはわれわれは捕虜ではなく、日本人だからだ。 (村中一等兵の言葉『現代の賢者たち』より)

 極寒の地で満足な食糧も与えられず、苛酷な労働が抑留者を苦しめた。だが、その様な中でも日本人としての誇りを失わず毅然と生き抜いた人々が居た。『現代の賢者たち』(致知出版社)に、BF六甲山麓研修所所長の志水陽洸氏の「酷寒のシベリアで私の人生は開かれた」と題する体験談が掲載されている。

志水氏等はシベリア収容所の暗黒の生き地獄の中で無気力になり、如何に監視の目を逃れてさぼるか計りを考えて日々過していた時、異質の集団と出会う。彼らはとてもひどい身なりをしていたが、真剣そのものに労働して志水氏達の数倍の仕事をこなしていた。そこで、志水氏は、彼らは敵の回し者に違いないと勘違いして抗議する。その時その集団のリーダーだったのが三五、六歳の村中一等兵だった。村中一等兵はひと通り志水氏の話を聞くと、その輝く様な鋭い目でみつめながら次の様に語った。

「あなた方は逆立ちの人生を送っている。一番大事な芯が抜けてしまっている。それでは栄養失調になったり、餓死するのも当たり前だ。私を見なさい。私の目や筋肉は、失礼だがあなた方とは違って、生き生きしていますよ。国境でソ連と戦闘して、敵を殺したためにわれわれは最悪の作業場を回されている。食事も待遇も、あなた方より悪い……でも、私たちは負けない。なぜか?それはわれわれは捕虜ではなく、日本人だからだ。どうです。あなた方も、もういい加減に捕虜を卒業したら。心までが何で捕虜にならなければいかんのです?」「現在の苦しい作業や悪条件は天が与えてくれた試練です。(略)人間が成長するために苦があるということは、これは生命の本源です。(略)私たちが負けていないのは、捕虜ではない、日本人なのだという自覚に燃えているからです。」と。

捕虜にありながら捕虜でない、誇り高き日本人の持つ信念の言葉だった。

福島茂徳『凍土に呻く シベリア抑留歌集』には、次の歌が紹介されている。毅然たる魂もたざれば死神がたちまちとりつく虜囚の生活

 私は平成十九年春に中央アジアのウズベキスタンを訪れて抑留で亡くなった方々の慰霊を行った。そこでは、日本人抑留者達が築いたナヴォイ劇場や水力発電所が今でも使われて居た。生真面目に働いた日本人抑留者の姿に現地の人々は感動し、今尚その事が語り継がれていた。

★この連載は今月号で終了いたします。ご愛読有り難うございました。尚、五月末に明成社から『永遠の武士道 語り伝えたい日本人の生き方』と題して出版される予定です。

愈々5月中旬に出版『永遠の武士道』

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本ブログでも紹介した「武士道の言葉」が単行本になります。

大幅に加筆した内容となります。

明成社から5月25日刊行です。

定価は1800円(税抜)です。10冊以上購入は割引もありますので明成社に直接申し込みください。

令和元年9月1日より、「永遠の武士道」研究所を開所しました!

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令和元年8月末日を以て日本協議会並びに日本会議本部の役職を退きました。

今後は、日本会議熊本理事長として全国を領導する熊本での国民運動に尚一層尽力して参ります。


更に、9月1日に「永遠の武士道」研究所を立ち上げ、武士道と日本人の心の研究を深め、日本人の教化活動に尽力して参ります。


又、今春からは、私が会長に推されて熊本陽明学研究会を開始しました。毎月1回の定例学習会を行っています。

錬義堂通信について

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令和元年9月1日に「永遠の武士道」研究所を設立した。

その活動は徐々に広げて行くしかないが、毎月の発信の場として『日本の息吹』熊本県民版の一角に「錬義堂通信」と題する小文を連載する事とした。

私は、大学二年生の9月に志を立てて、世の為人の為になる立派な人間となる事を誓った。そして、福岡の箱崎の下宿の六畳間を「錬義庵」と名付けて修養・学問に励んだ。

吉田松陰先生が「義」を重んじられ、「義卿」と号された事に由縁している。

そこで、この度熊本県合志市の自宅に二階にある私の研究室(書斎)を「錬義堂」と名付けたので、今後「錬義堂通信」と題して小文を発表して行く。

「義士」の町赤穂から始まった精神復興運動(『日本の息吹』熊本県民版令和元年11月号)

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【連載】 錬義堂通信 ①        

「義士」の町赤穂から始まった精神復興運動

 八月末日を以て、日本会議の本部役職を終え、熊本での活動に専念する事とした。今後は各支部を定期的に訪問して会員の方々との交流を深めて行きたい。そこで、私自身の研究室を「『永遠の武士道』研究所」と命名し、研究・講演の拠点とする。
 九月二十二日、兵庫県赤穂市の「赤穂山鹿素行研究会」に招かれ同会十周年の記念講演を行って来た。演題は「令和日本の道しるべ 現代に甦る山鹿素行の教え」である。赤穂義士の精神を育んだのは赤穂に配流された大学者・山鹿素行である。素行は、幕府の官学である朱子学を批判した事で、赤穂藩預りの身となる。赤穂藩主浅野長直は素行の弟子であり、素行を礼遇した。後の忠臣蔵の立役者・大石内蔵助は八歳から十七歳にかけて素行に直接の教を受けている。素行は赤穂の地で『中朝事実』を著し、シナでは無く日本こそが史事として最高の文明国である事を明らかにした。『中朝事実』は後に、吉田松陰や乃木希典が高く評価し、明治天皇に殉死した乃木は、遺言代わりに裕仁親王(後の昭和天皇)にこの本を渡している。
 赤穂山鹿素行研究会は平成二十一年に発足、会の目的として「素行思想の現代的な意義を探究し、その普及を通して日本人の倫理回復に寄与するとともに、現代の人づくりに活かす活動を行うものとする。」とある。改正された教育基本法にも立脚し、日本人の精神復興を赤穂の地から巻き起こそうと志している。

「わが君にまさるきみなし、わが祖にまさる祖なし」(『日本の息吹』熊本県民版・令和元年12月号)

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【連載】 錬義堂通信 ② 
       
「わが君にまさるきみなし、わが祖にまさる祖なし」

 第百二十六代天皇陛下の御即位をお祝いする「国民祭典」が十一月九日に皇居前広場で開催された。私は上京できなかったが、日本会議熊本からは片岡事務局長を十一月一日から十日迄中央に派遣してその運営の一端を担った。又、古庄会長御夫妻や熊本県奉祝委員会の笠会長御夫妻を始め多くの方々が上京して国民祭典に参加して感激を共にされた。
 私は、自宅のテレビで国民祭典の中継を拝観しながら、天皇皇后両陛下を戴く日本に生れた幸せをしみじみと感じ涙した。
その時に思い起こされたのが、幕末の志士・佐久良東雄の次の和歌(長歌)である。

     詠人道歌
わが君にまさるきみなし、わが祖(おや)にまさる祖なし、わが
君は今の現(をつつ)に、天(あま)照(てら)す日の大御神(おほみかみ)の珍(う
づ)の御子(みこ)、わが祖は日の若宮におはします、神伊邪諾(かむい
ざなぎ)の大御神(おほみかみ)、わが君に勝(まさ)る君なし、わが祖(おや)
に勝る祖なし、尊き此の身、嬉しき吾が身

東雄は、天照大御神の御子孫である天皇様に勝る主君は居らず、イザナギの大神から生まれ歴代の天皇様に仕えて来た自分の祖先に勝る祖先は居ない。その幸せをしみじみとこの和歌の中で謳い上げた。最後の「尊き此の身、嬉しき吾が身」の言葉が胸に沁みて来る。是非声に出して拝誦して戴きたい。

年賀の挨拶

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謹んで新年のご挨拶を申し上げます

「事を謀るは人に在り、事を成すは天に在り。」(諸葛亮孔明)

昨年五月一日に令和へと改元され、様々な御即位の諸儀式を拝観するにつけ、第百二十六代天皇陛下を戴く事の出来る日本に生を享けた幸せを噛みしめた一年でした。

私自身は八月末日を以て、長年務めた中央本部の役職を退き、熊本での活動に専念する事となりました。今後は、①日本会議熊本の活動強化に伴ふ全国への発信 ②日本会議熊本の支部組織の充実と活動の支援 ③日本会議熊本の同志である髙原朗子元熊大教授の国政を目指す活動の応援(皆様も御協力を)、の三点に力を注いで参ります。

又昨年五月に発足した熊本陽明学研究会の月例学習会、九月に開所した「永遠の武士道」研究所での武士道研究、更に熊本の先人顕彰にも取り組んで参る所存であります。これらの成果は私のブログやFBで紹介致します。

引き続き、杖道・神道夢想流杖術の修練、漢詩創作にも励んで参ります。

日々文武の修養を積み重ね、「致良知」の信條の下、「万物一体の仁」を目指し、大和魂を振起して参ります。

皆様のご指導ご鞭撻の程を宜しくお願ひ申し上げます。

本年の皆様のご多幸とご活躍を心よりお祈り致します。

令和二年庚子 元旦        櫻白 多久善郎

李栄薫『反日種族主義』(文藝春秋刊)を読む

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【連載】 錬義堂通信 ③ (『日本の息吹』県民版 令和2年1月号)
       
李栄薫『反日種族主義』(文藝春秋刊)を読む

 韓国でこの夏に出版され、十一万部を超えるベストセラーになった李栄薫編著『反日種族主義 大韓民国危機の根源』の日本語版が十一月に出版されたので、早速購入して読んだ。

 プロローグは「嘘の国」として、嘘をつく国民・政治・学問・裁判という驚くべき国民性への嘆きから始まっている。李栄薫博士を始めとする六人の執筆者は、日本統治・慰安婦・徴用工・竹島等の諸問題を実証的に検証する中で韓国政府が主張する歴史観の虚構性を完璧に論破している。二十二の論文が掲載されているが其々十頁前後で読み易い。李博士は現在ソウル大経済学部教授を退官した後、現在は李承晩学堂の校長を務めている。韓国建国の父であり反日主義の元祖とも云うべき李承晩の学堂の責任者が「反日種族主義」を糾弾している点に意味がある。

 「反日種族主義」とは「日本と韓国を、奪い奪われる殺し殺される関係にある、野蛮な二つの種族として捉え」韓国人の祖先達を無知で無力な存在、日本人の祖先達を邪悪で暴力的な存在と規定している、その歴史の観方を言う。李博士は叫ぶ「我々の祖先達はそんなに無力で無知だったのか」と。現在の利益の為に過去を全否定する事はアイデンティテイーの喪失に繋がり、その先には未来が描けない。「反日種族主義」に立脚する文在寅政権は、李承晩が生み出した大韓民国自体の存在さえも否定している。その危機感が根底には貫いている。

 私は十五年位前に中国で人民解放軍の大佐と歴史認識を巡って議論した事があるが、その大佐は「南京大虐殺の事は言いたくない。それを認めれば、吾々の祖先達が大虐殺を止められなかった無力な存在だった事を証明する事になるから。」と、語った。その時の大佐も李博士も、自らに繋がる祖先達の歴史を単なる被害者としては見たくないとの、真っ当なる歴史観の持ち主である。

国際的戦略家ルトワック氏からの日本への提言

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【連載】 錬義堂通信 ④ (『日本の息吹』県民版令和二年二月号掲載)
       
国際的戦略家ルトワック氏からの日本への提言

 昨年末、飛鳥新社から『ルトワックの日本改造論』が出版された。E・ルトワック氏は日本に次の諸点を提言している。

①全世界的に、少数の戦死者でさえ受容しない価値観が先進国に広がっている。それは、少子化から齎されたものであり、少子化対策は国防と同じ位大切である。先ずは、子供が五歳になる迄の完全な保育・育児の無料化を進めるべき。

②日韓関係というのは外交問題では無く、韓国自身の問題。日本政府は、日韓にまつわる近現代の歴史の真実に付て真剣に研究する、本物の公的プロジェクトに資金提供すべき。

③日本政府は尖閣に、海洋環境の保全を目的とする研究所を設立・建設して、所員を派遣し、同時に彼等の保護の為に自衛隊の部隊を常駐させるべき。無人島にしているから中国を誘い込むのだ。

④イージス・アショア「十年計画」の非現実性。脅威がさし迫っているのに十年計画で開発するなど論外。北朝鮮は整備された防空体制を欠いている。日本が本気になって核・ミサイル施設を攻撃し無力化する能力を構築する。それは国論の合意が為されるならば短期間で可能であり、技術的にも難しくはない。

⑤本格的な国家情報機関を設置せよ。かつて日本の満鉄調査部は世界最高水準の調査レポートを作成していた。

⑥「経済戦争」で最も大事なのは研究開発への後押し。

いずれも重要な課題であり、政治を志す人は是非耳を傾けて、これらの政策の実現に尽力して貰いたい。

連載を開始します。

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令和二年5月22日から「道の学問、心の学問」の連載を開始します。
江戸期の儒学者・心学者の珠玉の言葉を解説します。
大体、毎週金曜日にアップする予定です。

又、来週から「続『永遠の武士道』」の連載を開始します。
毎週火曜日にアップする予定です。
『永遠の武士道』で扱わなかった、戦国期の武士道の言葉を紹介して行きます。

江戸時代の儒者・心学者を高く評価し敬仰した内村鑑三

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連載「道の学問・心の学問」第一回

江戸時代の儒者・心学者を高く評価し敬仰した内村鑑三
 

 江戸時代には、庶民に心の在り方を解り易く説く「心学者」が多数現れた。その学問の背景は儒学であり、更に神道、仏教の教えも含めた「神儒仏一体」の立場で、人としての「道」を教え諭した。それは「武士道」のみならず一般庶民にも「道」を求める気風を醸成し、日本人の高い倫理観を育んだ。江戸の昌平坂学問所の講義には一般庶民にも開放されたものもあった。市井の中にも「心学」や「人の道」を説く本物の儒者が多数出現した。江戸期の日本人には、人としての「道」を学び、「心」を磨く事こそが「学問」だった。それ故、学問が生活に活かされない者を称する「論語読みの論語知らず」などの言葉も生まれた。

 明治になって江戸時代の儒者や心学者を高く評価した人物がいる。基督者の内村鑑三である。武士の出である内村は日本人としての誇りを決して失わず、外国の宣教師を嫌い、日本独自の無教会主義を唱えた。内村は『代表的日本人』(明治41年)の中で、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を挙げて紹介しているが、更に、大正4年から6年にかけて『聖書之研究』に左の様な江戸期の儒者に対する憧憬を記した。

「我国にも亦真儒なる者があつた、石川丈山、中江藤樹、山崎闇斎、伊藤仁斎等、皆な自由独立の人民の教師であった。」「誠に儒者に倣ふは宣教師に倣ふよりも遥かに高貴(ノーブル)である、」「我等は聖(きよ)められたる儒者として、仁斎藤樹の迹(あと)を践み、剛毅、独立、能く空乏に堪へ、富豪の門に出入せず、権者の援を籍(か)りず、自ら信者を作らんとして人の我が信仰を求めて我に来るを待ち、士としての品性を維持しつゝ神の栄光を顕はすべきである。」「我等は幸にして多くの高貴なる教師を有つた、惺窩、羅山、蕃山、益軒等、皆な徳を以て立つ士(さむらい)であつた。」(「寧ろ儒者に倣ふべし」)「伊藤仁斎は余の会心の儒者である。彼は今より二百年前の人、京都堀川に住し、自から出ることなくして天下の学徒を自己の膝下に引附けた」「終生平民の友であつた」「彼は学位尊称に身を飾りて喜ぶが如き人ではなかつた。而かも国民の大教師であつた、彼れ以後の儒者にして直接間接に彼の感化を蒙らざる者は無かつた、日本国が彼に負ふ所は多大である」(「大儒伊藤仁斎」)

 内村から更に隔てる事百年の現代に我々は生きている。現代では江戸期の儒者や心学者の事を振り返る人は稀有となってしまった。だが、彼らが人の道を説いた言葉は三百年を経た今日でも、我々が求めんとすれば強く心に響く普遍性を持っている。それは、彼らが学問を生き方に実践していた「本物」の人物だったからである。私は、毎朝彼らの遺した書物を紐解き、修養の糧にしている。それらの中から拾い出した珠玉の言葉を今後紹介して行きたい。

北条早雲の言葉①

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「続『永遠の武士道』」第一回

上下万民に対し、一言半句にても虚言を申べからず。
                       (「早雲寺殿廿一箇條」(『武士道全書』第一巻)

 前著『永遠の武士道』では、江戸以降の武士道についての言葉を紹介したので、その続編として江戸以前の武士道の言葉を先ずは紹介して行きたい。

 私は、戦国時代は下克上であり謀略渦巻く興亡の姿はあまり好きにはなれなかったのだが、戦国武将に関しての「観」を転換させた書物がある。和辻哲郎『日本倫理思想史』下巻である。第五編「後期武家時代における倫理思想」の第二章「戦乱の間に醸成された道義の観念」では、北条早雲や朝倉敏景、多胡辰敬の家訓や武田信玄について述べた『甲陽軍鑑』を通して、戦国武将に求められた高い倫理観について記されてある。和辻は、戦国時代の武士特有の体験から自覚されてきた道徳的理想とは「力を正しいとする倫理思想ではなくして、正直、慈悲、智慧の理想を個人の心構えや気組みの中に貫徹しようとする自敬の道徳、高貴性の道徳なのである。」と述べ、それ故に儒教の君子道徳と困難なく結びつき得た、と述べている。

 北条早雲(1432~1519)は戦国時代初期の武将である。今川氏に拠って駿河を平定し、後に相模を取って小田原城を拠点として後の北条氏の基礎を築いた人物である。その早雲は子孫の為に二十一カ条の家訓を残した。それを「早雲寺殿廿一箇條」と言う。

 早雲はその冒頭に「第一仏神を信じ申べき事」と記している。そして第五条には「拝みをする事、身のおこなひ也」と記し、心を真直ぐやわらかく持って正直を根本として上の人を敬い、下の者を憐れみ、有る事は有りとし、無い事は無いとする「ありのままなる心持」が天や仏の心に適う、例え祈らなくともこの心持があれば神明の加護があるし、祈っても心が曲がっているならば天の道に見放されてしまう、と述べる。

 そして十四条にここで紹介している「上下万民に対し、一言半句にても虚言を申べからず。かりそめにも有のまゝたるべし。そらごと言つくればくせになりて、せゝらるゝ也。人に頓而(やがて)みかぎらるべし。人に糺され申ては、一期の恥と心得べきなり。」と記している。「そらごと」は虚言、「せゝらるゝ」は「もてあそばれる」や「軽んじられる」の意である。その結果、人に軽んじられて見限られるのである。神仏を敬い、正直を旨として決して虚言を言わない生き方は、正に日本人が貫いて来た高い道徳である。戦国という弱肉強食の時代を生き抜いた武将からこの言葉が述べられる意義は大きい。論語に「民信なくば立たず」とあるが、戦国武将が国を維持出来た根源は、虚言を排す「信」の力にあったのである。

「道」を求める日本人の生き方

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「道の学問・心の学問」第二回

「道」を求める日本人の生き方


 本題に入る前に、私が今後紹介したいと思っている江戸期の人々の人生観や学問観と現代の私達のそれとの間のギャップを埋める為に、二回ほどこの連載のテーマである「道の学問・心の学問」の意味について記したい。

 現代に生きる日本人でも、剣道や柔道、弓道、茶道、華道、吟道など「道」の付く習い事を一つ位は体験した事があるのではないだろうか。私が「道」を意識し出したのは、高校時代に入部した空手道部の時(昭和四十四年)だった。何故「空手部」では無くて「空手道部」なのか、当初は解らなかった。厳しい稽古は、時として脱臼したり血を流したりする事もあった。しかし、稽古の最後には全員が正坐瞑目して「五条訓」を唱和した。それは
「一、人格完成に努むる事、一、誠の道を守る事、一、努力の精神を養う事、一、礼儀を重んずる事、一、血気の勇を戒むる事」である。
言霊の力であろうか、それを唱和すると清々しい気持ちで稽古を終える事が出来た。この中にも「誠の道」とある。当時「空手道」を理解していた訳では無いが、強く印象付けられていた。その後、大学に進学して人生の在り方を考え始めた時に自ずと「俺の道」を求めようとの強い意欲が湧いて来た。

 お隣のシナ民族は根っからの商売人の民族であるのに対して、日本人は職人肌の民族だと称される。相手を騙してでも自らの利益を追求するシナ流に対し、日本人は自らが生産した物の品質にこだわり、改良に改良を重ねてより高度な完成品を目指して行く、その結果「メイドインジャパン」は最高の評価を世界から受けている。「匠の技」の様な、一つの物事を徹底的に追い求めて行く生き方、である。それを「道を求める」「求道心(ぐどうしん)」と称し、そしてその生き方が「○○道」と呼ばれて来たのである。宗教でさえ、日本人は「神道」と称した。神々の様な清き明かき心に近づいて行く道が神道なのである。

 宮本武蔵は剣を通じた自らの生き方を「独行道」と称し、その中で「我事において後悔せず」と記した。独り行く道、とは寂しい道だが武蔵らしい孤高の姿である。

明治天皇は十万首以上の和歌を詠まれ、和歌の道を「敷島(しきしま)の道」と表現された。「敷島の」は大和に掛かる枕詞であり、「敷島の道」とは日本人のまごころを表現する言葉の道、和歌の事である。最晩年の明治四十五年の御製(天皇の和歌)に「寄道述懐(道に寄する述懐)」と題し
   すぐに行く道は誠のひとすぢを踏みなたがへそやまと国民(くにたみ)
という歌がある。意味は、「日本の国民が真直ぐに歩む道は、誠を尽す一筋の道を決して踏みたがえてはならない。」と、後世への遺訓ともいうべき御製である。勿論、天皇自らがその道を求め続け歩み続けて来られた、その感慨を和歌に表現されているのである。

 この様に、道を求め続けるには、道に則して自らの誠心を磨き上げて行かなければない。その為の学問を「道の学問・心の学問」と言う。それは、主にその道を歩んだ先人達がその心境を刻んだ言葉に、心を澄ませて「憶念」し、自らの体験と照し合せて「体得」して行く日々の営為となる。真実の「学問」とは、その様な心の磨きを言うのである。

歌道なき人は、無下に賤き事なり。学ぶべし。

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「続『永遠の武士道』」第二回

歌道なき人は、無下に賤き事なり。学ぶべし。常の出言に慎み有べし。一言にても人の胸中しらるゝ者也。    (「早雲寺殿廿一箇條」(『武士道全書』第一巻)

 「歌道」とは和歌を詠む事である。戦国武将は実に多くの和歌や漢詩を詠じている。私の手元に『武人万葉集』(東京堂出版)があるが、戦国時代の項には、様々な武将の数多くの和歌が掲載されている。その中に、寛永五年、後水尾上皇が当代の歌人の中から三十六歌仙を選定され、太田道灌、伊達政宗、細川幽斎、毛利元就、北条氏政を始め十三人の武人が選ばれた事を紹介している。又「戦国の群雄五十人一首」と題して様々な戦国武将の歌が紹介されてある。北条早雲のは次の歌である。

  梓弓おして誓ひをたがへずば祈る三島の神もうくらむ

梓弓は「おす」に掛かる枕詞、「おして」は「無理に、しいて」の意味。神に立てた誓いを無理に違える様な事がなければ、三島大社の神は必ずこの誓いを受けて下さるであろう、と早雲の敬神の誠が詠みこまれている。

 早雲は言う。「歌の道の心得の無い人というのは、はなはだ賤しい事なのだ。歌の道を学ぶべきである。」更には、「日常的に出す言葉には慎みがなければならない。ふとした時に出る一言で人の胸中は知られるものである。」と。和歌は「言の葉の誠の道」である。人の心の誠が言葉となって和歌となる。和歌の修業は言葉と心の一致を齎し、「真実の言葉」は、人々の誠心に感応して行く。早雲は、和歌の道が必須であると確信し、子孫に教戒した。

 武士道では「文武不岐」「文武両道」等というが、真の「武」の根底には「文」の素養が無ければならない。菅野覚明は『本当の武士道とは何か』(PHP新書)の中で、室鳩巣『駿台雑話』の中の「勇猛な話に涙する武将」の事を紹介している。「平家物語」の名場面に登場する華やかな武将の姿の、その奥に秘められた悲壮なる覚悟を推し量り涙する事の出来る者こそが、真の武勇の士であると言うのだ。菅野は言う。「このように相手の心情を察する能力、想像する能力、あるいは深く思いやる能力があるかないかの差が『文』があるかないかの違いでもあるのです。」と。「文」とは単なる知的教養では無く、心の磨きの事を言うのだ。

 武士の「強さ」を支えるものは、この様な繊細で相手の心を思いやる事の出来る「心の力」に他ならない。それを磨き鍛えるのが「歌道」なのである。歌道の心得のなき「無文」の将は、部下達からも見放され、領民達からも嫌悪されて、遂には領国を失うに至るのである。

現代とは違う江戸時代の学問観-高い「徳」=「人間力」を磨く為に学問が求められた

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「道の学問・心の学問」第三回(令和2年6月5日)

現代とは違う江戸時代の学問観 ― 高い「徳」=「人間力」を磨く為に学問が求められた


 江戸時代の人々の言葉に入る前に、現代と江戸時代の「学問観」が全く違っている事に留意が必要である。現代では、学問の目的は高い知性と理性の涵養にあり、特に知識を身に付ける事が学問の中心となっている。しかし、江戸時代の学問は「より良い生き方」の為に、自らの「徳」を高め「心」を磨く事を第一の目的としていた。知識が豊富であっても人間性が伴わなければ「俗儒」「口舌の徒」等と軽蔑された。

 西郷南洲の詩に「偶成」と題する次のものがある。
  厳寒勉学坐深宵    厳寒勉学深宵(しんしょう)に坐し
  冷面饑腸灯数挑    冷面饑腸(きちょう)灯(ともしび)数(しばしば)挑(かか)ぐ
  私意看来炉上雪    私意看(み)来たれば炉上の雪
  胸中三省愧人饒    胸中三省して人に愧(は)ずること饒(おお)し

極めて寒さの厳しい中、西郷は夜遅くまで坐って勉学に励んでいる。顔面は冷たくなり、空腹も襲ってくる中で、灯火の芯をしばしばかきたてて書物に向きあっている。そのようにしながらわがまま勝手な自分の心(私意)を見つめていると、いろりに落ちる雪がたちまち溶けてしまう様に、心の迷いが消えて行き、これまでの事を自らの胸に問うて深く省みれば、あまりにも人に恥じる事が多い事に、猛省させられるのである。

 西郷は、知識を増やす為に深夜まで勉学に励んでいるのでは無い。自らを磨く為に書と向き合っているのだ。今日でも「自反の学」(全ての事がらについて自らを省みる学問)、「慎独」(一人で居る時にも慎みの心を忘れない)、「人間学」(自らの人格や徳を磨いていく学問)など、心ある人は自分を磨き続けているが、それは一部の人に限られている。

 西郷が生きた江戸時代の学問とは、基本的に「人間学」であり、自らの心を磨いて行く為に必要不可欠の素養だった。心を磨いてゆけば自ずと自らが歩むべき、正しい「道」が見えてくるのである。『西郷南洲遺訓』には「道」を語る西郷の言葉が多数出て来る。「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人もわれ我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」「道を行ふ者は、天下挙て毀るも足らざるとせず、天下挙て誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。」等々。この様に正道を歩む西郷の確固たる生き方、その基礎を形作ったのが江戸の学問だったのである。

北条氏綱「義を守ての滅亡と義を捨てての栄花とは、天地格別にて候」

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「続『永遠の武士道』」第三回(令和2年6月9日)
義を守ての滅亡と義を捨てての栄花とは、天地格別にて候
(「北条氏綱書置」『武家家訓・遺訓集成』)

 北条早雲に始まる後北条家は、第三代氏康の時に絶頂に達し、第五代氏直迄約一世紀続いた。氏康の快挙は、その父であり初代早雲の長子だった氏綱が、良く父の教えを守り、更に嫡男の氏康に伝えた事による。

 その氏綱は天文十年(1541)7月に亡くなるが、その直前の5月、五カ条の遺訓を氏康に残している。それが「北条氏綱書置」と呼ばれるものである。

 その第一条では冒頭に「大将によらず、諸侍迄も義を専に守るべし。」と大将だけでなく全ての武士が「義」(正しい道)を専ら守るべき事を強調している。

 更に次の様に述べる。「義に背く行いであれば例え一国二国を奪い取っても後代から見れば恥辱となる。天運が尽きて滅亡したとしても義理は決して違えなかったとの自信があれば、後世に後ろ指を差される恥辱を受ける事は決して無い。昔から天下を治める者でも一度は滅亡の時が来るものである。

人の命はわずかの間なのだから、いやしい心持は決してあってはならない。古い物語を聞いても、義を守っての滅亡と義を捨てての栄花(栄華)とは、天地を隔てる程の相違がある。大将の心の底に義を守る確固たる信念があれば、配下の諸将も義理を思う様になる。無道の働きで利を得たる者は、終には天罰を逃れる事が出来ないのだ。」 

 これらの言葉には父早雲の訓えが厳然と生きている。大将たるものの持つべき確かな倫理観こそが配下の武将の高潔な精神を維持せしむるのである。人生は限りなく短く、その間の行為の是非については、長い歴史の中で後世の人々が判断を下す訳であり、歴史に不名誉な名前を残したく無いとの強い「名誉心」こそ、彼らの矜持であった。

 残りの四カ条も素晴らしい。要約する。

第二条 総じて人間には役に立たない者は居ない。その者の役に立つ所を使い、役に立たない所を使わないのが良い大将である。

第三条 侍は驕ったり諂ったりしてはいけない。自分の身相応の分限を守る事が良い。分限を越えて華美を求める風潮が生じれば家中の風儀が悪くなり、大将の鉾先迄弱まってしまう。

第四条 万事倹約を守るべきである。そうすれば庶民を痛める事も無い。

第五条 勝利の後には驕りの心が生じ易い。勝って兜の緒を締めよとの古語を忘れるな。

中江藤樹に学ぶ①「天子より以て庶人に至るまで、壱是(いっし)に皆身を修むるを以て本と為す」

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「道の学問・心の学問」第四回(令和2年6月12日)

中江藤樹に学ぶ①
天子より以て庶人に至るまで、壱是(いっし)に皆身を修むるを以て本と為す(『大学』)
 
これから、江戸時代の「心学者」の言葉を通して、「道の学問、心の学問」の有り方について学んで行きたいと思う。

「心学」とは自らの心の在り方を深めて行く学問で、儒学では、南宋の陸象山、明の王陽明などの学問は「心学」と称された。特に、内省的な人格者は「心学」を重んじ、修養の目標とした。心は、磨きを重ねる事によって、より強く、より高く、より深く、より広く成り得る。無限の進歩深化を遂げる事が可能なのである。その進み具合によって、「徳」が備わり人格の魅力が生まれて来る。

 第一回の内村鑑三の言葉で紹介した様に、我が国では江戸時代の儒学者の中に数多くの人格者を輩出している。その中で、最初に紹介するのは中江藤樹(慶長13年(1608)~慶安元年(1648))である。藤樹は、日本陽明学の祖とも言われている。近江国上小川村で生まれた藤樹は、九歳の時、農業を営む両親の下を離れ、米子藩に仕える祖父の養子となり学問に励む事となった。翌年には藩主の領地替えに伴い、伊予国大洲に移った。

その翌年、儒学の経典四書の『大学』を紐解き、この項で紹介している「天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身を修むるを以て本と為す」という文言に出会う。『大学』は大人(立派な人格者)となる為の学問の在り方について記した書物である。言葉の意味は「上は天子様から下は庶民に至るまで、ひとえに身を修める事が学問の根本である。」と、万人全てが自らの身を修める事で、聖人(人格完成者)に成る事が可能である事を述べている。身分の差を超越する学問万人平等論である。この言葉に藤樹は感激し、人生の目的と学問の方向性を見出し、自らも「聖人」になろうとの志を立てた。藤樹十一歳の時の事である。

『大学』には、修身→斉家→治国→平天下と、国家天下を治める根本が自らの修身にある事が記されてあり、かつ修身の中身として、格物・致知・誠意・正心を明示している。十一歳の藤樹にとって「修身」こそが、自らを聖人迄磨き上げる日々の実践の目標となった。ここに、後に「近江聖人」として数多くの庶民・武士から仰ぎ慕われる藤樹の「道」の出発が為されたのだった。藤樹の人生は僅か四十一年で終わる。だが、十一歳からの三十年の日々の実践を通して心を磨き、己の道を歩み続けて完成させたのである。

私自身は二十歳の時に「道の学問・心の学問」の存在を知り、衝撃を覚え、藤樹同様に「志」を立てた。爾来四十六年が経過するが、中々藤樹先生の高み迄至る事は出来ないでいる。しかし、決して迷う事無くこの道を生涯歩み続け、心を磨き真の日本人に成りたいと思っている。

北条氏康「戦の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ」 

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「続『永遠の武士道』」第四回(令和2年6月16日)

戦の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ 
    (『定本 名将言行録』「北条氏康」)

 後北条氏の三代目である北条氏康(うじやす)は、稀代の名将として関東に覇を唱えた。その契機となったのが、天文14年(1545)4月20日の「河越の夜軍(よいくさ)」である。駿河の今川義元は関東の両上杉(関東管領上杉憲政・上杉朝定)と結託、更に古河公方の足利晴氏とも手を結び、北条氏に打撃を与えんとした。今川軍が東駿河に侵攻を開始し、同時に両上杉軍と足利軍が、要衝の地である河越城(城主・北条綱成)を幾重にも包囲した。氏康は一端駿河に出兵するが、とって返して河越城の救援に駆け付けた。北条軍1万に対し、両上杉・足利連合軍は8万、圧倒的に不利だった。

 氏康は、打開策(謀)を考え、先ずは籠城中の綱成に謀を伝える決死の使者を送る事に成功する。その上で、足利晴氏やつての有る敵将に使者を送って籠城兵の助命を嘆願し、圧倒的な劣勢にある氏康が弱気になっている様に思わせた。更には、敵兵が来れば戦わずして小田原に退避、それを幾度も繰り返して長期戦に持ち込んだ。更には敵陣に食物・衣服等の商人や遊女を送り敵兵の油断を誘う。敵の状況はその都度間者を入れて的確に把握した。かくて敵の驕りと油断が高じ、「虚」が生じた頃、「時分は能(よ)きぞ」と兵を集めて訓示し、心を一つにして攻め入った。それに応じて河越城からも綱成が打って出た。上杉軍は驚愕し大混乱に陥って敗走し、上杉朝定は戦死した。両上杉・足利軍の死者は1万6千、北条軍の死者は百人にも満たなかった。この大勝利によって、氏康の名は関東一円に轟いた。

 その総攻撃の際に氏康が兵に述べた言葉が、「吾聞く、戦の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ、諺に曰く、小敵と雖も侮るべからず、大敵と雖も恐るべからずと云ふ、吾上杉と数度戦に及びけれども、何(い)つも我一人にて敵十人に当れり、寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決、此一戦に在り、汝等心を一にし、力を協(あ)はせ、唯吾向ふ所を視よ」である。

氏康は十六歳の初陣より勝利する事三十六回、刀鎗の創七ヵ所、面にも刀創二ヵ所あったという。圧倒的な兵力の差を逆手に取り、謀によって敵の「虚」を誘い、一気に勝負に出た氏康。その言葉には実戦の裏付けがあり、将兵に勝利を確信させる氏康の絶大なる信念が籠められている。「唯吾向ふ所を視よ」将兵は氏康の魂と一つになって勝利を得たのである。

中江藤樹②「にせの学問は、おほくするほど心だて行儀あしくなれり」

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「道の学問・心の学問」第五回(令和2年6月19日)

中江藤樹に学ぶ②
にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみおのれが名をたかくせんとのみ、高満の心をまなことし、(略)おほくするほど心だて行儀あしくなれり。 

                                                                             (『翁問答』下巻之本)
 
 中江藤樹は遠方の門人の為に問答形式で記した著作『翁問答』の中で、「正真の学問」と「にせの学問」との違いについて説いている。勿論、藤樹が実践し推奨したのは「正真の学問」である。

 先ず、「偽の学問」を見て行こう。
 藤樹は、「にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみおのれが名をたかくせんとのみ、高満の心をまなことし、孝行にも忠節にも心がけず、只ひたすらに記誦詞章の芸ばかりつとむる故に、おほくするほど心だて行儀あしくなれり。」と記している。

 偽の学問では、博識で人から褒められる事のみを追い求め、自分より知識が勝っている人が居たら嫉妬して、自分の名前だけを広めようとの名誉欲だけが旺盛で、高慢な心が根本では培われている。親孝行や主君への忠節などは心にもかけず、ひたすら記憶し暗唱して詩歌や文章等の文芸だけに終始している為に、学べば学ぶほど、人としての心映えや行いは愈々悪くなるばかりである。

 学問とは知識の多寡だと勘違いしており、自らの人格の向上については全く無頓着の人間となっているのだ。藤樹が求めたのは、学問を行う主体である自らの絶え間なき人間性の向上であり、その為に力となる本物の学問であった。

 藤樹は、「正真の学問」では「心のけがれをきよめ、身のおこなひをよくする」事が根本であり、「私心を捨てて義理を求める事を中心に据え、自己満足の心を起こさない様に工夫努力する事に主眼を置かなければならない。親には孝行を尽し、主君には真心で忠節を尽し、兄弟の間では信頼し助け合い、友人との交わりは偽りが無く信頼し合い、人の踏み行うべき五つの道(五典・父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)を第一の務めとしているので、学べば学ぶほど心立てや行いは良くなって行くものである」と述べている。

 学べば学ぶほど、人間として向上し、心が磨かれていく、それが真実の学問でなければならない。

 藤樹が生きた江戸時代初期、太平の下で学問の必要性が説かれ始めて居たが、学問の質は未だ明確ではなかった。その中で、学問の「真」と「偽」を門人たちに説いた藤樹の「心学」、それが江戸時代の人々の学問観に与えた影響は大きい。

 翻って現代、私達は幼少の頃から教育を与えられ、様々な「学問」を積み重ねて来ている。だが、藤樹の言う「正真の学問」と出会う事は、今日の学校教育に於いては殆ど無い。







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